任那の由来

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垂仁天皇(三)任那の由来

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原文

一云、御間城天皇之世、額有角人、乘一船、泊于越国笥飯浦、故號其處曰角鹿也。問之曰「何国人也。」對曰「意富加羅国王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智于岐。傳聞日本国有聖皇、以歸化之。到于穴門時、其国有人、名伊都々比古、謂臣曰『吾則是国王也、除吾復無二王、故勿往他處。』然、臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之。不知道路、留連嶋浦、自北海

現代語訳

ある書によると…
御間城天皇(ミマキスメラミコト崇神天皇)の時代に、額に角のある人が、一艘の舟に乗ってやってきて、越国の笥飯浦(ケヒノウラ)に停泊しました。その土地を「角鹿(ツヌガ)」と名付けました。

問い尋ねました。
「あなたはどこの国の人ですか?」
答えて言いました。
「意富加羅国(オオカラノクニ)の王(コキシ)の子で、名は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)です。別名を于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)と言います。人づてに日本国に聖皇(ヒジリノキミ)がいると聞いて、帰化(マウオモブク)しようと思いました。
(日本に来る途中で…)穴門(アナト=後の山口県・長門国)に到着したときに人がいました。名を伊都々比古(イツツヒコ)と言いました。その伊都々比古が私の臣(ヤツカレ=部下)に言いました。
『私はこの国の王だ。
私をおいて、ふたつの王はいない。
だから他に行くな』
しかし、臣がその人の為人(ヒトトナリ)を見るに、絶対に王ではないと分かりました。すぐに引き返しました。しかし道が分からずに嶋浦(シマジマウラウラ)をあちこちへ行って、北の海を回って、出雲国を経て、ここに来ました」
と言いました。
このとき、天皇が崩御してしまいました。そこで日本にとどまって、活目天皇(イクメノスメラミコト=垂仁天皇)に仕えて三年になりました。
垂仁天皇は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)に問いました。
「お前の国に帰りたいと思うか?」
すると答えました。
「お願いします」
天皇は都怒我阿羅斯等(ツヌガアラヒト)に命じました。
「お前が道に迷わずに早く日本に来ていたら、先代の天皇に会って仕えていただろう。だから、お前の本国の名前を改めて、御間城天皇(ミマキスメラミコト崇神天皇)の名前を取って、お前の国の名前としろ」
と言いました。
それで赤織(アカオリ)の絹を阿羅斯等(アラシト)に与えて、本土に返しました。それでその国を名付けて「彌摩那国(ミマナノクニ)」というのは、こういった由縁からです。

阿羅斯等(アラシト)は貰った赤絹(アカキヌ)を自分の国の郡府(クラ)に納めました。新羅人がそれを知って、兵を起こして、その赤絹を全て奪ってしまいました。これがこのふたつの国が恨む始まりの事件です。
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解説

ツヌガアラシト
角があるから、ツヌガアラシトなのか、「ツヌガアラシト」が「角がある人」に聞こえたから、そういう設定になったのか? もしかすると、日本では常識にないような「帽子」をかぶっていたからかもしれません。もしくは、単に「ツヌガ」に「いる人」で、「ツヌガ」は昔からの地名。大体、どの本を読んでも地名説話は「地名が先で、話は後から作られている」と書いてあるのに、この「ツヌガアラヒト」がいたから「ツヌガ」になったよ!というのだけが素直に地名説話を飲むなんておかしいです。皇国史観の反動でしょう。第二次大戦の「罪悪感」からであって「客観的なものの見方」からではないのでしょう。それにツヌガアラシトは別名として「于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)」というおおよそ日本語とは懸け離れた名前を持っています。ツヌガアラシトは日本での呼び名とか通称・通名で、本名が「于斯岐阿利叱智于岐(ウシキアリシチカンキ)」というのが妥当に思います。
人質でしょうね
おそらく加羅国の王子のツヌガアラシトは、日本に従属する意思を表すための「人質」だったのでしょう。この記述から「朝鮮半島から文化を伝えた」と判断するのは難しい。
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