垂仁天皇(一)出自と人間性

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垂仁天皇(一)出自と人間性

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原文

活目入彦五十狹茅天皇、御間城入彦五十瓊殖天皇第三子也。母皇后曰御間城姫、大彦命之女也。天皇、以御間城天皇廿九年歲次壬子春正月己亥朔生於瑞籬宮、生而有岐㠜之姿、及壯倜儻大度、率性任眞、無所矯飾。天皇愛之、引置左右。廿四歲、因夢祥、以立爲皇太子。六十八年冬十二月、御間城入彦五十瓊殖天皇崩。

現代語訳

活目入彦五十狹茅天皇(イクメイリビコイサチノスメラミコト)は御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト崇神天皇)の第三子です。母である皇后は御間城姫(ミマキヒメ)といいます。大彦命(オオビコノミコト=孝元天皇の皇子で開化天皇の兄)の娘です。

垂仁天皇は御間城天皇(崇神天皇)が即位29年の壬子の歳の春正月の一日に瑞籬宮(ミカツキノミヤ=崇神天皇の宮)で生まれました。生まれた時から姿は岐㠜(イコヨカ=秀でている)でした。壮(オトコザカリ)になると倜儻(スグ)れて大度(オオイナルミココロ)でした。率性(ヒトトナリ)は真理にかなっていて、その人間性を矯正したり、飾ることはありませんでした。

崇神天皇は皇子を愛し、左右(モトコ=すぐ近く)に置いていました。24歳になって夢の占いで皇太子になりました(崇神天皇(二十一)相夢で皇太子を判断する(日本書紀))。

崇神天皇即位68年冬12月。御間城入彦五十瓊殖天皇(ミマキイリヒコイニエノスメラミコト=崇神天皇)は崩御しました。
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解説

とにかく立派と書いてあります
漢文の読み下し文から調べ調べ書いているので、文章がむちゃくちゃですが、ようは生まれた時から立派で大人になると尚のこと立派で、お父さんである崇神天皇に愛されたと書いてあります。
活目入彦五十狹茅天皇
イクメイリヒコの「イクメ」は地名かと思われます。先代旧事本紀・天孫本紀などに「活目邑(イクメムラ)」という記述があります。崇神天皇(御間城入彦・ミマキイリヒコ)の「ミマキ」も地名なんでしょう。多分。よく「任那」の城が「ミマキ」で崇神天皇は任那から来た帰化人で朝鮮人だ!という説が見られますが、「ミマ」が「高貴な」という意味で「ミマキ」を「朝鮮半島の任那(ミマナ)」と同一と捉えるのは難しいかと。
垂仁天皇24歳の矛盾
24歳の時に夢の占いで「皇太子」になったとありますが、崇神天皇の段を見ると即位48年春1月10日(皇太子になったのは4月)で、垂仁天皇の出生が崇神天皇即位29年春1月1日ですから、20歳にしかならない。
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