天神庫も樹梯のまにまに

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垂仁天皇(二十四)天神庫も樹梯のまにまに

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原文

八十七年春二月丁亥朔辛卯、五十瓊敷命、謂妹大中姫曰「我老也、不能掌神寶。自今以後、必汝主焉。」大中姫命辭曰「吾手弱女人也、何能登天神庫耶。」(神庫、此云保玖羅。)五十瓊敷命曰「神庫雖高、我能爲神庫造梯。豈煩登庫乎。」故、諺曰、天之神庫隨樹梯之、此其緣也。然遂大中姫命、授物部十千根大連而令治。故、物部連等、至于今治石上神寶、是其緣也。昔丹波国桑田村有人、名曰甕襲。則甕襲家有犬、名曰足往。是犬、咋山獸名牟士那而殺之、則獸腹有八尺瓊勾玉。因以獻之。是玉今有石上神宮也。

現代語訳

即位87年春2月5日。
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は妹の大中姫(オオナカツヒメ)に言いました。
「わたしは年老いた。
神宝を管理することはできない。
これより以降はお前が管理しなさい」
大中姫命(オオナカツヒメノミコト)は断りを言いました。
「わたしは手弱女人(タオヤメ=か弱い)です。どうして天神庫(アメノホクラ)に登れましょうか」
神庫は保玖羅(ホクラ)と読みます。

五十瓊敷命(イニシキノミコト)は言いました。
「神庫(ホクラ)は高くても、私が神庫のためにハシゴを作ろう。だから、どうして庫に登るのが煩わしいだろうか(いや煩わしいわけがない)」
それで諺(コトワザ)で
「天神庫(アメノホクラ)も樹梯(ハシダテ)の隨(マニマニ)」というのはこれが所以です。
それでついに大中姫命は、物部十千根大連(モノノベノトオチネノオオムラジ)に(神宝を)授けて、治めさせました。
物部連たちは今に至るまでに石上の神宝を納めているのはこれが所以です。昔、丹波国の田村(タノムラ)に人がいました。名を甕襲(ミカソ)といいます。甕襲の家に犬がいました。名を足往(アユキ)といいます。この犬は、牟士那(ムジナ)という名前の山の獣(シシ)を食い殺しました。それで獣(シシ)の腹に八尺瓊(ヤサカニ)の勾玉がありました。それで献上しました。この玉は、現在、石上神宮にあります。
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解説

あれから48年
前回の垂仁天皇(二十三)十箇の品部と石上神宮、物部首の始祖の記述が垂仁天皇即位39年で、今回は即位87年。つまり48年後です。そりゃ、年をとるわけです。
イニシキノミコトについて
五十瓊敷命(イニシキノミコト)は大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)…つまり景行天皇の兄にあたります。景行天皇は父の垂仁天皇の死後に天皇につき、活躍することにはなるのですが、垂仁天皇が存命の時期に兄である五十瓊敷命(イニシキノミコト)が大活躍するというのは「?」です。

つまり景行天皇は決して「政争」で勝利して天皇になったのではなく、末子相続だから天皇になった、と考えるべきではないかと。だから兄がどれだけ活躍しても問題なかった。

いや、もしかすると天皇になるにはある条件があったんじゃないかと思うのです。天皇(スメラミコト)のスメラとは「清らか」という意味です。清らかとは具体的には「死穢」にまみれていないこと、つまり「死」に関わっていない、「戦争」に関わっていないこと、です。

垂仁天皇が皇太子になったのは夢の占いです。兄は「武力」を誇示する夢を見て、弟は「農業」を示唆する夢を見ました。それで弟の垂仁天皇が皇太子になりました。また五十瓊敷命(イニシキノミコト)も同様に「武力」を求め、弟の大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)は武力を求めず皇位を求めました。それで大足彦尊(オオタラシヒコノミコト)が天皇になるわけです。

兄は武を弟は天皇を。そういう役割分担が風習としてあったのではないか?とも、思うのです。
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