斉明天皇(十二)有間皇子の刑死・謀反の異説

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斉明天皇(十二)有間皇子の刑死・謀反の異説

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原文

庚寅、遣丹比小澤連国襲、絞有間皇子於藤白坂。是日、斬鹽屋連鯯魚・舍人新田部連米麻呂於藤白坂。鹽屋連鯯魚、臨誅言、願令右手作国寶器。流守君大石於上毛野国、坂合部藥於尾張国。(或本云、有間皇子、與蘇我臣赤兄・鹽屋連小戈・守君大石・坂合部連藥、取短籍卜謀反之事。或本云、有間皇子曰、先燔宮室、以五百人一日兩夜邀牟婁津、疾以船師斷淡路国。使如牢圄、其事易成。或人諫曰「不可也。所計既然、而無德矣。方今皇子年始十九、未及成人、可至成人而待其德。」他日、有間皇子與一判事謀反之時、皇子案机之脚無故自斷。其謨不止、遂被誅戮也。
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現代語訳

(即位4年)11月11日。丹比小沢連国襲(タジヒノオザワノムラジクニソ)を派遣して、有間皇子を藤白坂(フジシロノサカ=和歌山県海南市内海町藤白?和歌山県日高郡岩代村?)で縛り首にしました。この日に塩屋連鯯魚(シオヤノムラジコノシロ)と舎人の新田部連米麻呂(ニイタベノムラジコメマロ)を藤白坂で斬り殺しました。塩屋連鯯魚(シオヤノムラジコノシロ)は誅殺されるという時に言いました。
「願わくば! 右手で、国の宝器(タカラノモノ)を作らせてください!」
守君大石(モリノキミオオイワ)を上毛野国へ、坂合部薬(サカイベノクスリ)を尾張国へ、流罪としました。
ある本によると、有間皇子は蘇我臣赤兄(ソガノオミアカエ)・塩屋連小戈(シオヤノムラジオホコ)・守君大石(モリノキミオオイワ)・坂合部連薬(サカイベノムラジクスリ)と短籍(ヒネリブミ=短冊=小さな木片)を取って、謀反のことを占ったと言います。
ある本によると、有間皇子は言いました。
「まず宮室(オオミヤ=天皇の宮殿)を焼いて、500人で1日と2晩の間、牟婁津(ムロノツ=和歌山県田辺市?)を封鎖して、淡路国と断とう。牢屋に篭るようにしてしまえば、その事(=謀反の事)は簡単に成し遂げる事ができるだろう」
ある人は諌めて言いました。
「よくない。
計画は既にあるが、徳がない。今、皇子は年始めて19歳。まだ成人ではない。成人になってから、徳を得るべきだろう」
他の日に有間皇子は一人の判事(コトワルツカサ=朝廷の役人)と謀反を起こそうとした時に、皇子の案机(オシマヅキ=机)の脚が理由もなく、自然と折れて壊れました。その謀(ハカリゴト)は止められず、ついには誅殺されたと言います。
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解説

年始めて19歳
似たような表現が前のページにあります。

前のページでは「吾年始可用兵時矣」とあって、私は、「兵士を使っていい年齢になった」という意味に訳したんですが、「年始」というのはそのまま年の初めという意味かもしれません。今の感覚だと「年齢」は誕生日に一つ増えるのですが、古代では「年始」に年齢が増えたハズだからです。
だから「吾年始可用兵時矣」は「私は年始に兵士を使って良い(年齢になった)」という意味で、このページの「方今皇子年始十九」は「今、皇子は年始に19歳になった」という意味かも。
右手で、国の宝器(タカラノモノ)
どういう意味なんでしょうか? 塩屋連鯯魚は職能のある人物だったのか。
牟婁津を封鎖して
有間皇子は、孝徳天皇の子。孝徳天皇は皇極天皇と皇后の間人皇女と中大兄皇子に難波宮に置いていかれて、最後には憤死したとされる人物です。有間皇子が中大兄皇子や皇極天皇(斉明天皇)を目の敵にすることも、中大兄皇子が有間皇子を敵視にすることも、筋が通っています。

有間皇子が聡明な人物であることは記載がありましたが、具体的な策を上げて謀反を企てていた。ムロノツを閉鎖して、淡路島からの船団が救援に来ないようにする、ということは、斉明天皇・中大兄皇子の後ろ盾が淡路島にあった、ということになります。

これが変な話で、淡路島というのは伝統的に「流刑」で流される島なんですよね。そこに「救援の船団がある」というのは妙。

個人的にはこういうことじゃないかと思っています。
日本人は穢れを嫌った。死穢を嫌い、しまいには「兵士」を穢れていると嫌った。穢れたものは都の近くには置きたくない。天皇は特に清らかでないといけないから尚更。そこで兵士・兵団は離れたところに置いた。それが淡路島だった、のではないかと。
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