斉明天皇(九)渟代郡の大領の沙尼具那たち

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斉明天皇(九)渟代郡の大領の沙尼具那たち

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原文

秋七月辛巳朔甲申、蝦夷二百餘詣闕朝獻、饗賜贍給有加於常。仍授柵養蝦夷二人位一階、渟代郡大領沙尼具那小乙下(或所云授位二階使檢戸口)、少領宇婆左建武、勇健者二人位一階、別賜沙尼具那等鮹旗廿頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領。授津輕郡大領馬武大乙上、少領靑蒜小乙下、勇健者二人位一階、別賜馬武等鮹旗廿頭・鼓二面・弓矢二具・鎧二領。授都岐沙羅柵造(闕名)位二階、判官位一階。授渟足柵造大伴君稻積小乙下。又詔渟代郡大領沙尼具那、檢覈蝦夷戸口與虜戸口。

現代語訳

(即位4年)秋7月4日。蝦夷200人余りが、闕(ミカド=宮殿の門)にもうでて朝廷に献上しました。宴会を開いて、とても賑わい、物を与えました。いつもよりも、盛り上がりました。柵養(キカウ=東北の防衛施設の役人)の蝦夷の二人には位を一階授けました。渟代郡(ヌシロノコオリ=秋田県能代市)の大領(オオコオリノミヤツコ)の沙尼具那(サニグナ)には小乙下を…
ある所では、位を二階授けて、戸口(ヘヒト=人口)を検(カムガエ=調査)させたと言います。

少領(スケノミヤツコ)の宇婆左(ウバサ)には建武(ケンム)、勇健者(イサミタケキモノ)の二人には位一階。それとは別に、沙尼具那(サニグナ)たちに鮹旗(タコハタ)20頭・鼓(ツヅミ)2面・弓矢二具・鎧二領を与えました。
津軽郡の大領の馬武(メム)には大乙上(ダイオツジョウ)、少領の青蒜(アオヒル)に小乙下(ショウオツゲ)、勇健者(イサミタケキモノ)の二人には位一階を授けました。それとは別に馬武たちには鮹旗20頭・鼓2面・弓矢2具・鎧2領を与えました。
都岐沙羅(ツキサラ)の柵造(キノミヤツコ)…
名前は漏れていて分かりません。

には位二階を授けました。判官(マツリゴトヒト)には位一階を授けました。
渟足(ヌタリ)の柵造(キノミヤツコ)の大伴君稲積(オオトモノキミイナツミ)には小乙下(ショウオツゲ)を授けました。また、渟代郡の大領の沙尼具那に詔(ミコトノリ)して、蝦夷の戸口(ヘヒト)と、虜(トリコ=捕虜)の戸口を厳しく調べさせました。
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解説

建武
建武は以下に登場する「冠の位」の名前です。

ただし

では建武の名前はなくなり「立身」となっています。このページの時点では建武という名前は法律上は無い、はずなんですが、
「少領(スケノミヤツコ)の宇婆左(ウバサ)には建武(ケンム)」
と建武が出ています。

これは中央の法律が地方まで伝わるのに時間が掛かっていた、ということかもしれません。まーそれよりも、建武という位を持っていたということは、蝦夷はこのページ以前から、大和朝廷の「ルール」に入っていたということです。

そう考えると、このページで蝦夷を征伐して帰属させたというよりは、「バイト」から「正社員」になった程度のことじゃ無いかと思うんですよね。大和朝廷の支配下に入った、ということよりも、そもそも関わりがあって、その関わりが深くなっただけ、というのが実情でしょう。

漢文で表現するところの「征伐」「朝貢」「貢調」という言葉と日本人が考える、それらの言葉の意味には文化的に乖離があって、そこを考えないと本質が見えないってことです。
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