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斉明天皇(十)智通と智達と玄奘法師・紀温湯での歌
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是月、沙門智通・智達、奉勅、乘新羅船往大唐国、受無性衆生義於玄弉法師所。
冬十月庚戌朔甲子、幸紀温湯。天皇、憶皇孫建王、愴爾悲泣、乃口號曰、
耶麻古曳底 于瀰倭柁留騰母 於母之樓枳 伊麻紀能禹知播 倭須羅庾麻旨珥 其一
瀰儺度能 于之裒能矩娜利 于那倶娜梨 于之廬母倶例尼 飫岐底舸庾舸武 其二
于都倶之枳 阿餓倭柯枳古弘 飫岐底舸庾舸武 其三
詔秦大藏造萬里曰、傅斯歌勿令忘於世。
冬十月庚戌朔甲子、幸紀温湯。天皇、憶皇孫建王、愴爾悲泣、乃口號曰、
耶麻古曳底 于瀰倭柁留騰母 於母之樓枳 伊麻紀能禹知播 倭須羅庾麻旨珥 其一
瀰儺度能 于之裒能矩娜利 于那倶娜梨 于之廬母倶例尼 飫岐底舸庾舸武 其二
于都倶之枳 阿餓倭柯枳古弘 飫岐底舸庾舸武 其三
詔秦大藏造萬里曰、傅斯歌勿令忘於世。
現代語訳
(即位4年秋7月)この月に沙門(ホウシ)の智通(チツ)・智達(チダチ)は勅(ミコトノリ)を受け賜って、新羅の船に乗って、大唐国(モロコシノクニ=中国の唐)に行き、無性(ムジョウ=人名=インドの学僧)の衆生の義(コトワリ)を玄奘法師(ゲンジョウホウシ=三蔵法師)の元で授かりました。
冬10月15日。斉明天皇は紀温湯(キノユ)に行きました。天皇は皇孫の建王の思い出を思い出し、心を痛め、悲しみ、泣きました。そして歌を口ずさみました。
山越えて 海渡るとも おもしろき 今城(イマキ)のうちは 忘(ワス)らゆましじ その1
水門(ミナト)の 潮(ウシオ)のくだり 海(ウナ)くだり 後(ウシロ)も暗(クレ)に 置きてか行(ユ)かむ その2
愛(ウツク)しき 吾(ア)が若き子を 置きてか行かむ その3
秦大蔵造万里(ハダノオオクラノミヤツコマロ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「この歌を伝えて、世に忘れさせてはならない」
冬10月15日。斉明天皇は紀温湯(キノユ)に行きました。天皇は皇孫の建王の思い出を思い出し、心を痛め、悲しみ、泣きました。そして歌を口ずさみました。
山越えて 海渡るとも おもしろき 今城(イマキ)のうちは 忘(ワス)らゆましじ その1
歌の訳
山を越えて海を渡り、面白く楽しい旅をしても、今木のことは忘れないよ。
山を越えて海を渡り、面白く楽しい旅をしても、今木のことは忘れないよ。
水門(ミナト)の 潮(ウシオ)のくだり 海(ウナ)くだり 後(ウシロ)も暗(クレ)に 置きてか行(ユ)かむ その2
歌の訳
港から潮に乗り、海へと下りでて、後ろに暗い思い出を置いて残して行くなぁ。
港から潮に乗り、海へと下りでて、後ろに暗い思い出を置いて残して行くなぁ。
愛(ウツク)しき 吾(ア)が若き子を 置きてか行かむ その3
歌の訳愛するかわいい我が子を、置いて残して行くのだなぁ。
秦大蔵造万里(ハダノオオクラノミヤツコマロ)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「この歌を伝えて、世に忘れさせてはならない」
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解説
西遊記で有名な玄奘(ゲンジョウ)に日本の僧が学んで、教えを授かりました。
歌と天皇
歌は建王との思い出を示唆しているのですが、歌の中に建王を具体的に示唆する表現は「今城」という殯の場所だけで、あとは必ずしも建王を示しているわけではありません。となるとこの歌は、やっぱり当時の流行歌を取り込んだと考えた方がいいんじゃないかと。
歌と天皇
歌は建王との思い出を示唆しているのですが、歌の中に建王を具体的に示唆する表現は「今城」という殯の場所だけで、あとは必ずしも建王を示しているわけではありません。となるとこの歌は、やっぱり当時の流行歌を取り込んだと考えた方がいいんじゃないかと。
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- Page9 斉明天皇(九)渟代郡の大領の沙尼具那たち
- Page10 斉明天皇(十)智通と智達と玄奘法師・紀温湯での歌
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- Page12 斉明天皇(十二)有間皇子の刑死・謀反の異説
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