斉明天皇(十一)蘇我赤兄の天皇批判・有馬皇子の謀反

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斉明天皇(十一)蘇我赤兄の天皇批判・有馬皇子の謀反

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原文

十一月庚辰朔壬午、留守官蘇我赤兄臣語有間皇子曰、天皇所治政事有三失矣。大起倉庫積聚民財、一也。長穿渠水損費公粮、二也。於舟載石運積爲丘、三也。
有間皇子、乃知赤兄之善己而欣然報答之曰、吾年始可用兵時矣。甲申、有間皇子向赤兄家登樓而謀、夾膝自斷。於是、知相之不祥、倶盟而止、皇子歸而宿之。是夜半、赤兄遣物部朴井連鮪率造宮丁、圍有間皇子於市經家。便遣驛使、奏天皇所。
戊子、捉有間皇子與守君大石・坂合部連藥・鹽屋連鯯魚、送紀温湯。舍人新田部米麻呂、從焉。於是、皇太子親問有間皇子曰、何故謀反。答曰、天與赤兄知、吾全不解。
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現代語訳

(即位4年)11月3日。留守官(トドマリマモルツカサ=天皇が留守の時に皇居を守る役職)の蘇我赤兄臣(ソガノアカエノオミ)が有間皇子(アリマノミコ)に語って言いました。
「天皇が治める政治には三つの誤りがある。大きな倉庫(クラ)を立てて、民財(オオタカラノタカラ)を集めて積み上げていること(=租税が重いという意味)。これが一つ。
長く遠い渠水(ミゾ=溝=水路)を掘って、公粮(ヒトノクライモノ=公的資金)を費やし、損じさせたこと。これが二つ目。
船に石を精査記して、運んで積んで丘にしたこと。これが三つ目」
有間皇子はすぐに赤兄(アカエ)が自分に好意を持っていると知って、喜んで答えて言いました。
「私の年齢は、初めて兵を用いるべき時です」
11月5日。有間皇子は赤兄の家に向かって行き、楼(タカドノ)に登って、謀議をしました。夾膝(オシマズキ=簡易的な椅子)が自然と折れて壊れました。このしるしを不祥(サガナキコト=不吉)なことと理解して、二人とも盟友を結ぶのを止めました。皇子は帰って泊まりました。この夜中に赤兄は物部朴井連鮪(モノノベノエノイノムラジシビ)を開けんして、宮殿を作る丁(ヨホロ)を率いて、有馬皇子を市経(イチブ=奈良県生駒郡生駒町一分)の家を囲みました。皇太子(=中大兄皇子)はすぐに駅使(ハイマ=早馬)を派遣して、斉明天皇に申し上げました。
11月9日。有馬皇子と守君大石(モリノキミオオイワ)・坂合部連薬(サカイベノムラジクスリ)・塩屋連鯯魚(シオヤノムラジコノシロ)を捕えて、紀温湯(キノユ)に送りました。舎人の新田部米麻呂(ニイタベノコメマロ)が従者でした。皇太子は、自らが有馬皇子に問いました。
「何のために、謀反をしようとしたのか?」
答えて言いました。
「天と赤兄が知っている。
私は全く知らない」
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解説

蘇我赤兄
蘇我馬子の子の蘇我倉麻呂の子で、蘇我馬子から見れば馬子。蘇我倉山田石川麻呂とは兄弟。当然ながら蘇我日向とも兄弟。

有馬皇子が謀反を理由に誅殺された後は天智天皇に「左大臣」として任用されていることから、有馬皇子の謀反事件は、蘇我赤兄による謀殺と見る向きが多いです。
●蘇我赤兄が謀殺したとするならば、斉明天皇の批判は赤兄が語ったことにしたのはおかしい。
●物語の筋から言えば、赤兄は日和見して裏切ったと考える方が自然。まぁ、記述が全て「史実」ならば、ですが。

壬申の乱では天智天皇の子の大友皇子側について、乱の後には配流(=島流し)似合って、生死不明。子孫も歴史から消えたので死んだのだと思われます。
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