斉明天皇(七)巨勢徳太臣の死・齶田の蝦夷の恩荷

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斉明天皇(七)巨勢徳太臣の死・齶田の蝦夷の恩荷

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原文

四年春正月甲申朔丙申、左大臣巨勢德太臣薨。夏四月、阿陪臣闕名率船師一百八十艘伐蝦夷、齶田・渟代二郡蝦夷望怖乞降。於是、勒軍陳船於齶田浦、齶田蝦夷恩荷進而誓曰「不爲官軍故持弓失、但奴等性食肉故持。若爲官軍以儲弓失、齶田浦神知矣。將淸白心仕官朝矣。」仍授恩荷以小乙上、定渟代・津輕二郡々領。遂於有間濱、召聚渡嶋蝦夷等、大饗而歸。

現代語訳

即位4年春1月13日。左大臣の巨勢徳太臣(コセノトコダノオミ)は亡くなりました。

夏4月。阿陪臣(アヘノオミ)…
名は漏れていて分かりません。

が船師(フナイクサ)180艘を率いて、蝦夷を征伐しました。齶田(アギタ=秋田県秋田市)・渟代(ヌシロ=秋田県能代市)の2郡の蝦夷は、遠くから(軍を)見て、恐ろしくなり、降伏すると請い願いました。軍を整えて、船を齶田浦(アギタノウラ=雄物川河口?)に船を停留させました。齶田の蝦夷の恩荷(オガ=人名)が進み出て誓って言いました。
「官軍と戦うための弓矢は持っていません。ただし私めらは性質上、動物の肉を食べるために弓矢を持っています。もし、官軍のために弓矢を備えるならば、齶田浦の神には分かるでしょう。清らかで潔白な心を持ち、朝廷に仕官いたしましょう」
恩荷に小乙上(ショウオツジョウ)を授け、渟代(ヌシロ)・津軽(ツガル)の2郡の郡領(コオリノミヤツコ)を定めました。ついには有間浜(アリマノハマ=?)で渡嶋(ワタリノシマ=遠い海の向こうの嶋)の蝦夷たちを呼びあつめて、大きな宴会をして帰しました。
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解説

蝦夷との戦いの記述、と考えればそうなんですが、「交渉」と言っても差し支えのない「征伐」です。日本人が考える征伐ってのは、このくらいのことなのかもしれません。

何せ最後は宴会してお終いです。なんて平和な征伐なんでしょうかね。
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