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斉明天皇(四)後飛鳥岡本宮と田身嶺の垣根
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二年秋八月癸巳朔庚子、高麗遣達沙等進調。(大使達沙・副使伊利之、總八十一人)。九月、遣高麗大使膳臣葉積・副使坂合部連磐鍬・大判官犬上君白麻呂・中判官河內書首(闕名)、小判官大藏衣縫造麻呂。是歲、於飛鳥岡本更定宮地。時、高麗・百濟・新羅並遣使進調、爲張紺幕於此宮地而饗焉。遂起宮室、天皇乃遷、號曰後飛鳥岡本宮。於田身嶺、冠以周垣(田身山名、此云大務)、復於嶺上兩槻樹邊起觀、號爲兩槻宮、亦曰天宮。時好興事、廼使水工穿渠自香山西至石上山、以舟二百隻載石上山石順流控引、於宮東山累石爲垣。時人謗曰、狂心渠。損費功夫三萬餘矣、費損造垣功夫七萬餘矣。宮材爛矣、山椒埋矣。又謗曰、作石山丘、隨作自破。(若據未成之時作此謗乎。)又作吉野宮。西海使佐伯連栲繩(闕位階級)・小山下難波吉士国勝等、自百濟還、獻鸚鵡一隻。災岡本宮。
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現代語訳
即位2年秋8月8日。高麗は達沙(ダチサ=位の名前)たちを派遣して調(ミツキ)を献上しました。
9月高麗に派遣した。大使の膳臣葉積(カシワデノオミハツミ)・副使の坂合部連磐鍬(サカイベノムラジイワスキ)・大判官の犬上君白麻呂(イヌカミノキミシロマロ)・中判官の河内書首(カワチノフミノオビト)
小判官の大藏衣縫造麻呂(オオクラノキヌヌイノミヤツコマロ)です。
この年、飛鳥の岡本にさらに宮殿の土地を定めました。その時、高麗・百済・新羅は一緒に使者を派遣して調(ミツキ)を献上しました。そのために紺(フカキハナダ)の幕をこの宮の土地に張って、宴会をしました。その後、宮室(オオミヤ)がたちました。天皇はすぐに移りました。名付けて、後飛鳥岡本宮(ノチノアスカノオカモトノミヤ)と言います。田身嶺(タムノミネ=多武峰=奈良県桜井市の南にある山)に冠のように周囲を巡る垣根がある。
また峰の上に二つの槻(ツキ=木の種類=弓に使われる木材)の木のあたりに、観(タカドノ=見張り台)が立っている。名付けて、両槻宮(フタツキノミヤ)と言います。または天宮(アマツミヤ)と言います。興事(オコシツクルコト=工事)を好みました。すぐに水工(ミズタクミ=水道工事者)に溝を掘らせました。香山(カグヤマ)の西から石上山(イソノカミヤマ=奈良県天理市石上神宮の山)に至ります。船200隻で石上山の意思を積載して、水の流れに準じて、引いて、宮の東の山に石を累積して、垣根としました。その時代の人は誹謗して言いました。
「狂心(タブレココロ)の渠(ミゾ)。功夫(ヒトチカラ)を損失させ費やした人数は30000人余り。垣根を作る功夫を費やし損失させた人数は70000人余り。宮材(ミヤノキ)はただれ使えなくなり、山椒(ヤマノスエ=山の頂上)は埋もれた」
また誹謗して言いました。
「石の山の丘を作る。作った先から自然とこぼれて壊れていく」
また吉野宮(ヨシノノミヤ=奈良県吉野郡吉野町?)を作りました。西海(ニシノミチ)の使者の佐伯連栲繩(サエキノムラジタクハワ)
小山下難波吉士国勝(ショウセンゲナニワノキシクンイカツ)たちは、百済から帰って、鸚鵡(アウム)1隻を献上しました。岡本宮は火災に遭いました。
達沙と副使の伊利之(イリシ)、総勢81人。
9月高麗に派遣した。大使の膳臣葉積(カシワデノオミハツミ)・副使の坂合部連磐鍬(サカイベノムラジイワスキ)・大判官の犬上君白麻呂(イヌカミノキミシロマロ)・中判官の河内書首(カワチノフミノオビト)
名が漏れていて分からない。
小判官の大藏衣縫造麻呂(オオクラノキヌヌイノミヤツコマロ)です。
この年、飛鳥の岡本にさらに宮殿の土地を定めました。その時、高麗・百済・新羅は一緒に使者を派遣して調(ミツキ)を献上しました。そのために紺(フカキハナダ)の幕をこの宮の土地に張って、宴会をしました。その後、宮室(オオミヤ)がたちました。天皇はすぐに移りました。名付けて、後飛鳥岡本宮(ノチノアスカノオカモトノミヤ)と言います。田身嶺(タムノミネ=多武峰=奈良県桜井市の南にある山)に冠のように周囲を巡る垣根がある。
田身は山の名前です。これを大務(タム)と読みます。
また峰の上に二つの槻(ツキ=木の種類=弓に使われる木材)の木のあたりに、観(タカドノ=見張り台)が立っている。名付けて、両槻宮(フタツキノミヤ)と言います。または天宮(アマツミヤ)と言います。興事(オコシツクルコト=工事)を好みました。すぐに水工(ミズタクミ=水道工事者)に溝を掘らせました。香山(カグヤマ)の西から石上山(イソノカミヤマ=奈良県天理市石上神宮の山)に至ります。船200隻で石上山の意思を積載して、水の流れに準じて、引いて、宮の東の山に石を累積して、垣根としました。その時代の人は誹謗して言いました。
「狂心(タブレココロ)の渠(ミゾ)。功夫(ヒトチカラ)を損失させ費やした人数は30000人余り。垣根を作る功夫を費やし損失させた人数は70000人余り。宮材(ミヤノキ)はただれ使えなくなり、山椒(ヤマノスエ=山の頂上)は埋もれた」
また誹謗して言いました。
「石の山の丘を作る。作った先から自然とこぼれて壊れていく」
もしかして、まだ完成していない時に、この誹謗を言ったか?
また吉野宮(ヨシノノミヤ=奈良県吉野郡吉野町?)を作りました。西海(ニシノミチ)の使者の佐伯連栲繩(サエキノムラジタクハワ)
位・階級(シナ)は漏れていてわからない。
小山下難波吉士国勝(ショウセンゲナニワノキシクンイカツ)たちは、百済から帰って、鸚鵡(アウム)1隻を献上しました。岡本宮は火災に遭いました。
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解説
斉明天皇の悪評
斉明天皇は国民を使役して無茶な宮殿を作ったと誹謗されています。
斉明天皇についてはわかりませんが、孝徳天皇と天智天皇(=中大兄皇子)は儒教を学んだとあります。儒教の世界観では権力者を頂点としたピラミッド構造となっていて、権力者は下のものを自由にして良いことになっています。まぁ、自由と言っても、限度があるのですが、それでも全ては「権力者のもの」というのが儒教的な視点です。
なので中国の「京」というものは、城壁でガッチリと囲まれているものです。「全ては権力者のもの」である以上は、すべてを守らないといけないからです。そして敗北すると、全部奪われます。命も財産も、人民も、また城壁として使った煉瓦や石も、新しい権力者の「京」の材料になります。
私は斉明天皇は儒教的な「都づくり」を目指して、「石垣」を作ったんじゃないか?と思います。それがどのようなものだったのかは分かりませんが、作った当時としては、斬新というか、古代の日本人には理解できない所業だったのでしょう。それで誹謗されたのだと思います。
斉明天皇は国民を使役して無茶な宮殿を作ったと誹謗されています。
斉明天皇についてはわかりませんが、孝徳天皇と天智天皇(=中大兄皇子)は儒教を学んだとあります。儒教の世界観では権力者を頂点としたピラミッド構造となっていて、権力者は下のものを自由にして良いことになっています。まぁ、自由と言っても、限度があるのですが、それでも全ては「権力者のもの」というのが儒教的な視点です。
なので中国の「京」というものは、城壁でガッチリと囲まれているものです。「全ては権力者のもの」である以上は、すべてを守らないといけないからです。そして敗北すると、全部奪われます。命も財産も、人民も、また城壁として使った煉瓦や石も、新しい権力者の「京」の材料になります。
私は斉明天皇は儒教的な「都づくり」を目指して、「石垣」を作ったんじゃないか?と思います。それがどのようなものだったのかは分かりませんが、作った当時としては、斬新というか、古代の日本人には理解できない所業だったのでしょう。それで誹謗されたのだと思います。
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