田部の名籍を白猪史の胆津に

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敏達天皇(七)田部の名籍を白猪史の胆津に

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原文

冬十月戊子朔丙申、遣蘇我馬子大臣於吉備国、増益白猪屯倉與田部。卽以田部名籍、授于白猪史膽津。戊戌、詔船史王辰爾弟牛、賜姓爲津史。十一月、新羅遣使進調。

現代語訳

(即位3年)冬10月9日。蘇我馬子大臣(ソガノウマコオオオミ)を吉備国に派遣して白猪屯倉(シライノミヤケ)と田部(タベ)を増やしました。田部の名籍(ナノフミタ)を白猪史(シライノフビト)の胆津(イツ)に授けました。

10月11日。船史(フネノフビト)の王辰爾(オウジンニ)の弟の牛(ウシ=人名)に詔(ミコトノリ)して、姓(カバネ)を与えて津史(ツノフビト)としました。

11月新羅は使者を派遣して調(ミツキ=税)を献上しました。
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解説

蘇我馬子の父の蘇我稲目が白猪屯倉を設置し、その後、どうやら胆津という朝鮮人がこの屯倉の戸籍管理をした。日本人は穢れを嫌ったがために、獣の屍体から取れる毛で作った筆を使えず、文字を書くことができなかった。それで穢れの概念のない朝鮮人を記録係として重宝した。

蘇我稲目・蘇我馬子は仏教を取り入れるよう働きかけをするのですが、そのきっかけがどうやらこの白猪屯倉の「管理」体験だったのでしょう。いや、もしかすると、この屯倉がそもそも、仏教というか戸籍管理のための「実験場」だったのかもしれません。
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