難波の罪を数える

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敏達天皇(六)難波の罪を数える

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原文

三年夏五月庚申朔甲子、高麗使人、泊于越海之岸。

秋七月己未朔戊寅、高麗使人、入京奏曰「臣等去年、相逐送使罷歸於国。臣等先至臣蕃、臣蕃卽准使人之禮、禮饗大嶋首磐日等。高麗国王、別以厚禮々之。既而、送使之船至今未到。故、更謹遣使人幷磐日等、請問臣使不來之意。」天皇聞、卽數難波罪曰「欺誑朝庭、一也。溺殺隣使、二也。以茲大罪、不合放還。」以斷其罪。

現代語訳

即位3年夏5月5日。高麗の使者は越海の岸(ホトリ)に停泊しました。

秋7月20日。高麗の使い人は京(ミヤコ=ここでは大和)に入って申し上げて言いました。
「わたしめらは、去年、送使(オクルツカイ)に従って、国(=高麗)に帰りいました。わたしめらは先に自分が蕃(クニ)に到着しました。わたしの蕃(クニ)で、使人の礼になぞらえて、大嶋首磐日(オオシマノオビトイワイ)を礼を持って歓迎の宴会をしました。高麗国の王は、それとは別に厚い礼を持ってもてなしました。しばらく経ったのですが、送使の船は今でも到着していません。それで、謹んで使人と一緒に磐日たちを派遣して、わたしめの使者が来ていない理由を問いたいのです」
天皇はそれを聞いて、難波(ナニワ=人名:吉備海部直難波)の罪を責めて、その罪を数えて言いました。
「朝廷を欺いたこと。これが一つ。
隣国の使者を溺らせて殺したこと。これが二つ目。
この大きな罪では、許し返すことはできない」
それで断罪しました。
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解説

高麗の使者を送るように言われた難波は部下二人と高麗の使者二人を入れ替えて、高麗へと進みました。それで難波の船に乗った高麗の使者を海に捨てて殺した。そしてさっさと帰った。
一方、高麗の船は難波の部下である「大嶋首磐日・狹丘首間狭」を乗せて、そのまま高麗へ。

高麗は二人を歓待したのですが、いつまで経っても、難波の船に乗った高麗の使者が帰ってこない。
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