スポンサードリンク
推古天皇(三十四)十九年夏五月五日、菟田野での薬猟
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
十九年夏五月五日、藥獵於菟田野。取鶏鳴時、集于藤原池上、以會明乃往之。粟田細目臣爲前部領、額田部比羅夫連爲後部領。是日諸臣、服色皆隨冠色各著髻花、則大德小德並用金、大仁小仁用豹尾、大禮以下用鳥尾。秋八月、新羅遣沙㖨部奈末北叱智、任那遣習部大舍親智周智、共朝貢。
現代語訳
即位19年夏5月5日。菟田野で薬猟(クスリガリ=鹿の角を取る=鹿茸とも言う)をしました。鶏鳴時(アカツキ=夜明け)になって、藤原池(フジワラノイケ)のほとりに集まりました。会明(アケボノ=日の出)になって出かけました。粟田細目臣(アワタノホソメノオミ)を前に行く部領(コトリ)としました。額田部比羅夫連(ヌカタベノヒラブムラジ)を後ろの部領(コトリ)としました。
この日の諸々の臣は服の色を、みんな、冠の色(=冠位十二階のこと)に従いました。それぞれが髻花(ウズ=髪に刺す飾)を刺していました。大徳・小徳は金。大仁・小仁は豹(ナカツカミ)の尾を。大礼より下は鳥の尾を用いました。
秋8月。新羅は沙㖨部奈末北叱智(サタクホウナマホクシチ)を派遣し、任那は習部大舍親智周智(シュウホウタサシンチシュチ)を派遣しました。どちらも朝貢しました。
この日の諸々の臣は服の色を、みんな、冠の色(=冠位十二階のこと)に従いました。それぞれが髻花(ウズ=髪に刺す飾)を刺していました。大徳・小徳は金。大仁・小仁は豹(ナカツカミ)の尾を。大礼より下は鳥の尾を用いました。
秋8月。新羅は沙㖨部奈末北叱智(サタクホウナマホクシチ)を派遣し、任那は習部大舍親智周智(シュウホウタサシンチシュチ)を派遣しました。どちらも朝貢しました。
スポンサードリンク
解説
19年夏5月5日
原文にも「十九年夏五月五日」とあります。ここまで全ての日付は全て「干支」で記述してあったのに、なぜか急に日付が書かれています。この日付による記述はここが初めてで、この後に3度出てきます。ともかく特殊です。これは、この記述に「元ネタ」があり、その元ネタの記述をそのままに引用しているためだろうと思います。ひっくり返すと、日本書紀の編纂に際して、できるだけ加工はしないようにしていた、ということではないかとも思うのですよね。
服の色
天皇の薬猟って「遊び」じゃないと思われます。つまり「儀式」です。民の健康を願ってですね。この儀式を冠位十二階のルールに従った衣服で参加するわけです。冠位十二階の位の名前は「徳」「仁」「礼」となっていることから、儒教の思想が反映されています。古来の儀式と儒教の思想がこうして並立するということを、示したのがこの文章なんじゃないかと思います。
原文にも「十九年夏五月五日」とあります。ここまで全ての日付は全て「干支」で記述してあったのに、なぜか急に日付が書かれています。この日付による記述はここが初めてで、この後に3度出てきます。ともかく特殊です。これは、この記述に「元ネタ」があり、その元ネタの記述をそのままに引用しているためだろうと思います。ひっくり返すと、日本書紀の編纂に際して、できるだけ加工はしないようにしていた、ということではないかとも思うのですよね。
服の色
天皇の薬猟って「遊び」じゃないと思われます。つまり「儀式」です。民の健康を願ってですね。この儀式を冠位十二階のルールに従った衣服で参加するわけです。冠位十二階の位の名前は「徳」「仁」「礼」となっていることから、儒教の思想が反映されています。古来の儀式と儒教の思想がこうして並立するということを、示したのがこの文章なんじゃないかと思います。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
推古天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page30 推古天皇(三十)筑紫の大宰・肥後の葦北津に百済人が漂着
- Page31 推古天皇(三十一)百済の道人は元興寺へ・福利が帰国せず
- Page32 推古天皇(三十二)曇徵と法定・彩色と紙墨と碾磑
- Page33 推古天皇(三十三)新羅と任那の使者の歓待と儀式
- Page34 推古天皇(三十四)十九年夏五月五日、菟田野での薬猟
- Page35 推古天皇(三十五)蘇我馬子との歌い合い
- Page36 推古天皇(三十六)堅塩媛を檜隈大陵に改めて葬る
- Page37 推古天皇(三十七)羽田の薬猟
- Page38 推古天皇(三十八)斑皮の百済人、路子工、別名を芝耆摩呂
スポンサードリンク