スポンサードリンク
推古天皇(三十)筑紫の大宰・肥後の葦北津に百済人が漂着
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
十七年夏四月丁酉朔庚子、筑紫大宰奏上言「百濟僧道欣・惠彌爲首一十人・俗七十五人、泊于肥後国葦北津。」是時、遣難波吉士德摩呂・船史龍、以問之曰、何來也。對曰「百濟王命以遣於吳国、其国有亂不得入。更返於本鄕、忽逢暴風、漂蕩海中。然、有大幸而泊于聖帝之邊境、以歡喜。」
現代語訳
即位17年夏4月4日。筑紫の大宰(オオミコトモチノツカサ)が申し上げて言いました。
「百済の僧の道欣(ドウコン)と恵弥(エミ)を首長として10人と、俗人75人が肥後国の葦北津(アシキタノツ)に宿泊しました」
この時、難波吉士徳摩呂(ナニワノキシトコマロ)と船史龍(フネノフビトタツ)を派遣して、問わせて言いました。
「何をしに来たのか?」
答えて言いました。
「百済の王に命じられて呉国に派遣されました。その国に乱があって、入ることが出来ませんでした。それで本郷(モトノクニ)に帰りました。すると暴風に会って、海の中を漂流していました。すると大きな幸(サチ=ここでは幸運)があって聖帝(キミ)の辺境に泊まっているのです。歓喜しています」
「百済の僧の道欣(ドウコン)と恵弥(エミ)を首長として10人と、俗人75人が肥後国の葦北津(アシキタノツ)に宿泊しました」
この時、難波吉士徳摩呂(ナニワノキシトコマロ)と船史龍(フネノフビトタツ)を派遣して、問わせて言いました。
「何をしに来たのか?」
答えて言いました。
「百済の王に命じられて呉国に派遣されました。その国に乱があって、入ることが出来ませんでした。それで本郷(モトノクニ)に帰りました。すると暴風に会って、海の中を漂流していました。すると大きな幸(サチ=ここでは幸運)があって聖帝(キミ)の辺境に泊まっているのです。歓喜しています」
スポンサードリンク
解説
意味不明だが
百済に王に命じられて呉国…つまり中国南部に行こうとしたら、乱があって入られなかった。それで百済に帰ってきたら、暴風に流されて肥後国…つまり熊本県に流れ着いた…うーん。
地理的におかしい。百済から流されて熊本に流れ着くことはありえない。仮にこの文章が「正しい」とすると「中国南部から、海流に流されて熊本に流れ着いた」と考えるべきでしょうね。
もしくは「嘘」。
単に百済から密出国しただけの人が言い訳に言った言葉がコレってだけか。次のページでは、「本国に帰るのを拒否」していますからね。
百済に王に命じられて呉国…つまり中国南部に行こうとしたら、乱があって入られなかった。それで百済に帰ってきたら、暴風に流されて肥後国…つまり熊本県に流れ着いた…うーん。
地理的におかしい。百済から流されて熊本に流れ着くことはありえない。仮にこの文章が「正しい」とすると「中国南部から、海流に流されて熊本に流れ着いた」と考えるべきでしょうね。
もしくは「嘘」。
単に百済から密出国しただけの人が言い訳に言った言葉がコレってだけか。次のページでは、「本国に帰るのを拒否」していますからね。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
推古天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page26 推古天皇(二十六)裴世清の来日と歓待
- Page27 推古天皇(二十七)妹子は唐の書を百済人に掠め取られる
- Page28 推古天皇(二十八)大唐の親書・金の髻花と5色の陵羅
- Page29 推古天皇(二十九)東の天皇と西の皇帝・学生を8人派遣
- Page30 推古天皇(三十)筑紫の大宰・肥後の葦北津に百済人が漂着
- Page31 推古天皇(三十一)百済の道人は元興寺へ・福利が帰国せず
- Page32 推古天皇(三十二)曇徵と法定・彩色と紙墨と碾磑
- Page33 推古天皇(三十三)新羅と任那の使者の歓待と儀式
- Page34 推古天皇(三十四)十九年夏五月五日、菟田野での薬猟
スポンサードリンク