百済の道人は元興寺へ・福利が帰国せず

MENU
TOP>推古天皇(日本書紀)>推古天皇(三十一)百済の道人は元興寺へ・福利が帰国せず
スポンサードリンク

推古天皇(三十一)百済の道人は元興寺へ・福利が帰国せず

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

原文

五月丁卯朔壬午、德摩呂等復奏之。則返德摩呂・龍二人而副百濟人等、送本国。至于對馬、以道人等十一皆請之欲留、乃上表而留之、因令住元興寺。秋九月、小野臣妹子等至自大唐、唯通事福利不來。

現代語訳

(即位17年)5月16日。徳麿呂(トコマロ)たちは報告を申し上げました。すぐに徳麿呂と竜(タツ=船史竜)を返し、百済の人たちに添えて本国に送りました。対馬に至って、道人(オコナイビトドモ)11人が皆、請願して留まりたいと申し出ました。そこで表(フミ)を献上して留まることにしました。それで元興寺(ガンゴウジ)に居らせました。

秋9月。小野臣妹子(オノノオミイモコ)たちは大唐(モロコシ)から到着しました。ただし通事(オサ=通訳者)の福利だけ帰って来ませんでした。
スポンサードリンク

解説

徳麿呂(トコマロ)は肥後国に流れ着いた百済の人たちのもとへと調査に行った人物。竜(タツ=船史竜)も同様に肥後国へ派遣された「船史龍(フネノフビトタツ)」のこと。

百済の人たちは、呉国…中国南部に使者として行ったら、乱れていて相手にしてもらえなくて、帰って来ると暴風にあって、熊本県(肥後国)まで流されたという人たち。
中国南部から一気に百済へと帰るルートが一般的だったのか。もしかすると百済からの密出国者だったんじゃないかとも。それで対馬で「帰りたくない」と言い出したのではないかとも思う。
Pre<<<  >>>Next 
スポンサードリンク

SNSボタン

TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket

ページ一覧

スポンサードリンク

管理人リンク

編集