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推古天皇(二十九)東の天皇と西の皇帝・学生を8人派遣
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九月辛未朔乙亥、饗客等於難波大郡。辛巳、唐客裴世淸罷歸。則復以小野妹子臣爲大使、吉士雄成爲小使、福利爲通事、副于唐客而遺之。爰天皇聘唐帝、其辭曰「東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世淸等至、久憶方解。季秋薄冷、尊何如、想淸悆。此卽如常。今遣大禮蘇因高・大禮乎那利等往。謹白不具。」是時、遣於唐国學生倭漢直福因・奈羅譯語惠明・高向漢人玄理・新漢人大圀・學問僧新漢人日文・南淵漢人請安・志賀漢人慧隱・新漢人廣濟等幷八人也。是歲、新羅人多化來。
現代語訳
(即位16年)9月5日。客人たちを難波の大郡(オオゴオリ)で宴会で歓待しました。
11日。唐の客人の裴世清(ハイセイセイ)は帰りました。すぐにまた小野妹子臣(オノノイモコノオミ)を大使(オオツカイ)としました。吉士雄成(キシノオナリ)を小使(ソイツカイ=副大使)としました。福利(フクリ=鞍作福利の事)を通事(オサ=通訳者)としました。唐の客人に添えて派遣しました。天皇は唐の帝(キミ=皇帝)に聘(トブラウ=礼を尽くす)しました。その送った言葉で言いました。
「東(ヤマト)の天皇は、謹んで西の皇帝に言います。使者の鴻臚寺(コウロジ=中国で外国を接待する役人のこと)の裴世清たちが来て、久しい思いは方(ミザカリ=真っ盛り)で解けました。季節は秋になったこの頃、徐々に涼しく冷えてきました。尊(カシコドコロ=唐の煬帝の事)はいかがですか? 想うに、清悆(オダヒカ=穏やか)にしているのでしょう。こちらはいつも通りです。大礼(ダイライ=冠位十二階の位)の蘇因高(ソインコウ=小野妹子の事)と大礼の乎那利(オナリ=難波吉士雄成の事)を派遣して、行かせました。謹み申し上げましょう。詳細ではありませんが、これで」
この時、唐の国に派遣した学生は倭漢直福因(ヤマトノアタイフクイン)・奈羅訳語恵明(ナラノオサエミョウ)・高向漢人玄理(タカムクノアヤヒトゲンリ)・新漢人大圀(イマキノアヤヒト?)・学問僧(モノナラウホウシ)の新漢人日文(イマキノアヤヒトニチモン)・南淵漢人請安(ミナブチノアヤヒトショウアン)・志賀漢人慧隱(シガノアヤヒトエオン)・新漢人広済(イマキノアヤヒトコウサイ)たち、合わせて8人です。
この年、新羅人が多く帰化しました。
11日。唐の客人の裴世清(ハイセイセイ)は帰りました。すぐにまた小野妹子臣(オノノイモコノオミ)を大使(オオツカイ)としました。吉士雄成(キシノオナリ)を小使(ソイツカイ=副大使)としました。福利(フクリ=鞍作福利の事)を通事(オサ=通訳者)としました。唐の客人に添えて派遣しました。天皇は唐の帝(キミ=皇帝)に聘(トブラウ=礼を尽くす)しました。その送った言葉で言いました。
「東(ヤマト)の天皇は、謹んで西の皇帝に言います。使者の鴻臚寺(コウロジ=中国で外国を接待する役人のこと)の裴世清たちが来て、久しい思いは方(ミザカリ=真っ盛り)で解けました。季節は秋になったこの頃、徐々に涼しく冷えてきました。尊(カシコドコロ=唐の煬帝の事)はいかがですか? 想うに、清悆(オダヒカ=穏やか)にしているのでしょう。こちらはいつも通りです。大礼(ダイライ=冠位十二階の位)の蘇因高(ソインコウ=小野妹子の事)と大礼の乎那利(オナリ=難波吉士雄成の事)を派遣して、行かせました。謹み申し上げましょう。詳細ではありませんが、これで」
この時、唐の国に派遣した学生は倭漢直福因(ヤマトノアタイフクイン)・奈羅訳語恵明(ナラノオサエミョウ)・高向漢人玄理(タカムクノアヤヒトゲンリ)・新漢人大圀(イマキノアヤヒト?)・学問僧(モノナラウホウシ)の新漢人日文(イマキノアヤヒトニチモン)・南淵漢人請安(ミナブチノアヤヒトショウアン)・志賀漢人慧隱(シガノアヤヒトエオン)・新漢人広済(イマキノアヤヒトコウサイ)たち、合わせて8人です。
この年、新羅人が多く帰化しました。
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解説
日本が中国から文化を吸収しようとしていたことが明らかです。この日本が中国の隋の煬帝に送った手紙が本当ならば、日本は中国に対して「天皇」と名乗っていたことになります。まぁ、これは後世に創作したというのが、定説なんですが。
しかし「推古天皇(二十八)大唐の親書・金の髻花と5色の陵羅」の中に「最近は気温が暖かくなったなぁ」という記述があり、このページにも「秋になって涼しくなったなぁ」と書いてあります。季節の挨拶ですね。こんなことを「後世に創作」するか?と思います。
隋書の「日出ずる処の天子」「日没する処の天子」の手紙のように、ここで「東の天皇・西の皇帝」と書いているってことは、やっぱり、当時、日本は「日本と中国は対等」、もしくは「日本は中国の属国ではない」という意識はあったと思いますね。
世間では「天皇」という言葉があったか無かったかを議論しますが、そこは大した問題ではないでしょう。大事なのは「独立」の「意識」です。
しかし「推古天皇(二十八)大唐の親書・金の髻花と5色の陵羅」の中に「最近は気温が暖かくなったなぁ」という記述があり、このページにも「秋になって涼しくなったなぁ」と書いてあります。季節の挨拶ですね。こんなことを「後世に創作」するか?と思います。
隋書の「日出ずる処の天子」「日没する処の天子」の手紙のように、ここで「東の天皇・西の皇帝」と書いているってことは、やっぱり、当時、日本は「日本と中国は対等」、もしくは「日本は中国の属国ではない」という意識はあったと思いますね。
世間では「天皇」という言葉があったか無かったかを議論しますが、そこは大した問題ではないでしょう。大事なのは「独立」の「意識」です。
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推古天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page25 推古天皇(二十五)小野臣妹子を大唐へ派遣
- Page26 推古天皇(二十六)裴世清の来日と歓待
- Page27 推古天皇(二十七)妹子は唐の書を百済人に掠め取られる
- Page28 推古天皇(二十八)大唐の親書・金の髻花と5色の陵羅
- Page29 推古天皇(二十九)東の天皇と西の皇帝・学生を8人派遣
- Page30 推古天皇(三十)筑紫の大宰・肥後の葦北津に百済人が漂着
- Page31 推古天皇(三十一)百済の道人は元興寺へ・福利が帰国せず
- Page32 推古天皇(三十二)曇徵と法定・彩色と紙墨と碾磑
- Page33 推古天皇(三十三)新羅と任那の使者の歓待と儀式
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