裴世清の来日と歓待

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推古天皇(二十六)裴世清の来日と歓待

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原文

十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐国號妹子臣曰蘇因高。卽大唐使人裴世淸・下客十二人、從妹子臣至於筑紫。遣難波吉士雄成、召大唐客裴世淸等。爲唐客更造新館於難波高麗館之上。六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河內直糠手・船史王平、爲掌客。

現代語訳

即位16年夏4月。小野臣妹子(オノノオミイモコ)は大唐(モロコシ)から到着しました。唐国(モロコシノクニ)は妹子臣(イモコノオミ)に蘇因高(ソインコウ)と名付けました。大唐の使者の裴世清(ハイセイセイ)と下客(シモベ=下僕)12人を妹子臣に従って、筑紫に到着しました。難波吉士雄成(ナニワノキシオナリ)を派遣して、大唐からの客人の裴世清たちを呼び寄せました。唐の客人のために、新しい館(ムロツミ)を難波の高麗館(コマノムロツミ)のそばに造りました。

6月15日。客人たちは難波津(ナニワノツ)に宿泊しました。この日に飾船(カザリフネ)の30艘で客人たちを江口(エグチ=現在の大阪中島?)で出迎えて、新しい館に滞在させました。中臣宮地連烏磨呂(ナカトミノミヤドコロノムラジオマロ)・大河内直糠手(オオシカフチノアタイアラテ)・船史王平(フネノフビトオウヘイ)を掌客(マラウトノツカサ=客人の担当役人)としました。
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解説

隋書によれば「裴清」が、倭国から来た使者について行って倭国に行ったとあるので、この日本書紀の記述と一致します。裴世清は日本のことを「中国人と同じで、蛮族とするのはおかしい」と報告しています。それなりに、政治制度が整っていたのか、はたまたモラルがあったからか、生活習慣が近いと思ったか。
裴世清を歓待
日本は裴世清とその従者をかなり歓待しています。
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