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推古天皇(二十二)鳥の功績と大仁の位
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五月甲寅朔戊午、勅鞍作鳥曰「朕、欲興隆內典、方將建佛刹、肇求舍利。時、汝祖父司馬達等便獻舍利。又於国無僧尼。於是、汝父多須那、爲橘豊日天皇、出家恭敬佛法。又汝姨嶋女、初出家、爲諸尼導者、以修行釋教。今朕爲造丈六佛、以求好佛像、汝之所獻佛本則合朕心。又造佛像既訖、不得入堂、諸工人不能計、以將破堂戸、然汝不破戸而得入、此皆汝之功也。」則賜大仁位。因以給近江国坂田郡水田廿町焉。鳥、以此田爲天皇作金剛寺、是今謂南淵坂田尼寺。
現代語訳
(即位14年)5月5日。鞍作鳥(クラツクリノトリ)に勅(ミコトノリ)して言いました。
「朕は内典(ウチツノリ=仏教の経典)を隆興させようと思っている。仏刹(ブッセツ=刹は旗竿のことで、寺には宝珠火焔の形のシンボルをつけた竿を立てたことから「仏刹」は寺の意味=ここでは飛鳥寺の事)を立てようとして、はじめに仏舎利(=仏陀の遺骨のこと、この時代には遺骨が神格化されていて、分裂していくらでも増えるとされたり、実際には宝石などになっている)を探し求めている。お前の祖父の司馬達等(シメダチト)は仏舎利を献上した。その時、国には僧も尼もいなかった。そこでお前の父の多須那(タスナ)は橘豊日天皇(タチバナトヨヒノスメラミコト=用明天皇)のために出家して仏法を慎み敬った。また、お前の叔母の嶋女(シマメ=善信尼の事)は出家して諸々の尼を導く者として、釈迦の教えを修行した。今、朕は丈六の仏像を造って祀るために、良い仏像を探し求めている。お前が献上した仏の本(タメシ=仏像の試作品)は朕の心にかなった。また、仏像を造ることはすでに終わってから、堂にに入ることができなかった。諸々の工人(タクミ=職人)は計算できず。堂の戸を壊そうとした。しかし、お前は戸を壊さないで入ることが出来た。これは皆、お前の功績だ」
それで大仁(ダイニン)の位を与えました。それで近江国の坂田郡の水田20町を与えました。鳥(トリ)はこの田に天皇のために、金剛寺を作りました。これは、今、南淵(ミナブチ)の坂田尼寺と言います。
「朕は内典(ウチツノリ=仏教の経典)を隆興させようと思っている。仏刹(ブッセツ=刹は旗竿のことで、寺には宝珠火焔の形のシンボルをつけた竿を立てたことから「仏刹」は寺の意味=ここでは飛鳥寺の事)を立てようとして、はじめに仏舎利(=仏陀の遺骨のこと、この時代には遺骨が神格化されていて、分裂していくらでも増えるとされたり、実際には宝石などになっている)を探し求めている。お前の祖父の司馬達等(シメダチト)は仏舎利を献上した。その時、国には僧も尼もいなかった。そこでお前の父の多須那(タスナ)は橘豊日天皇(タチバナトヨヒノスメラミコト=用明天皇)のために出家して仏法を慎み敬った。また、お前の叔母の嶋女(シマメ=善信尼の事)は出家して諸々の尼を導く者として、釈迦の教えを修行した。今、朕は丈六の仏像を造って祀るために、良い仏像を探し求めている。お前が献上した仏の本(タメシ=仏像の試作品)は朕の心にかなった。また、仏像を造ることはすでに終わってから、堂にに入ることができなかった。諸々の工人(タクミ=職人)は計算できず。堂の戸を壊そうとした。しかし、お前は戸を壊さないで入ることが出来た。これは皆、お前の功績だ」
それで大仁(ダイニン)の位を与えました。それで近江国の坂田郡の水田20町を与えました。鳥(トリ)はこの田に天皇のために、金剛寺を作りました。これは、今、南淵(ミナブチ)の坂田尼寺と言います。
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解説
司馬達等
司馬達等は娘の当時11歳の「嶋(=善信尼)」を尼に差し出し、寺を建てて尼たちを養育した人物。そこで拝んでいるとお供えの食料のお椀に「仏舎利」が現れました。
多須那
鳥の父に当たる多須那は用明天皇のために出家したとあります。つまり南淵の坂田寺は用明天皇の病気を治そうと祈祷するための寺です。その近くに、子の鳥が坂田尼寺を建てたわけです。
大仁(ダイニン)
冠位十二階で上から3番目。そもそもがどの程度の地位だったのかはなんとも言えませんが、他に名前が見えないことと、「鞍作」という姓を考えると、職人が並み居る氏族をすっ飛ばして、凄まじいジャンプアップだろうと思われます。
日本はなんだかんだ言っても血縁が大事で、権力者が固定されるものでした。そこを冠位十二階で、出身氏族とは関係なしに役立つものは登用するという姿勢を初めて示したのが、この「大仁の位を与えた」という記事なんでしょう。
そのための長々と祖父・父・叔母と当人の功績を示したのでしょう。
司馬達等は娘の当時11歳の「嶋(=善信尼)」を尼に差し出し、寺を建てて尼たちを養育した人物。そこで拝んでいるとお供えの食料のお椀に「仏舎利」が現れました。
多須那
鳥の父に当たる多須那は用明天皇のために出家したとあります。つまり南淵の坂田寺は用明天皇の病気を治そうと祈祷するための寺です。その近くに、子の鳥が坂田尼寺を建てたわけです。
大仁(ダイニン)
冠位十二階で上から3番目。そもそもがどの程度の地位だったのかはなんとも言えませんが、他に名前が見えないことと、「鞍作」という姓を考えると、職人が並み居る氏族をすっ飛ばして、凄まじいジャンプアップだろうと思われます。
日本はなんだかんだ言っても血縁が大事で、権力者が固定されるものでした。そこを冠位十二階で、出身氏族とは関係なしに役立つものは登用するという姿勢を初めて示したのが、この「大仁の位を与えた」という記事なんでしょう。
そのための長々と祖父・父・叔母と当人の功績を示したのでしょう。
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- Page21 推古天皇(二十一)元興寺の金堂の戸より大きな仏像なので入らない
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- Page23 推古天皇(二十三)皇太子は天皇のために勝鬘經と法華経を講じる
- Page24 推古天皇(二十四)壬生を定める・神祗を重んじる
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