スポンサードリンク
推古天皇(十七)冠位十二階の実施
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
十二月戊辰朔壬申、始行冠位。大德・小德・大仁・小仁・大禮・小禮・大信・小信・大義・小義・大智・小智、幷十二階。並以當色絁縫之、頂撮總如囊而着緣焉。唯、元日着髻花。髻花、此云于孺。
十二年春正月戊戌朔、始賜冠位於諸臣、各有差。
十二年春正月戊戌朔、始賜冠位於諸臣、各有差。
現代語訳
(即位11年)12月5日。初めて冠位を行いました。
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智。併せて12階。ならびに冠位に当たる色の衣を縫いました。頂(イタダキ)は取り、すべて袋のようにして、縁(モトホリ)を着けました。ただ、元日には髻花(ウズ)を挿しました。
即位12年春1月1日。初めて冠位を諸々の臣たちに与えました。それぞれに品がありました。
大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智。併せて12階。ならびに冠位に当たる色の衣を縫いました。頂(イタダキ)は取り、すべて袋のようにして、縁(モトホリ)を着けました。ただ、元日には髻花(ウズ)を挿しました。
髻花は于孺と言います。
即位12年春1月1日。初めて冠位を諸々の臣たちに与えました。それぞれに品がありました。
スポンサードリンク
解説
冠位12階
仏教を推し進めたはずの聖徳太子ですが、冠位十二階を見ると、「徳・仁・礼・信・義・智」となっていて、これは明らかに儒教の考え。
この冠位の名前は日本独自のもの。朝鮮半島(百済や新羅や高句麗)にも役人の官位はあったが、それを冠と結びつけたものはなく、また冠位の名前も全然違う。
つまり、聖徳太子は仏教を推し進めつつ、儒教の感覚を取り入れて実務に取り組んでいったということになります。
位を設けることや、上下関係を持ち込むことは、政治を安定させるには重要なことで、むしろこれまでの日本の「和」の感覚では、国家運営は行き詰まるという考えが聖徳太子にはあったんじゃないかと思われます。
仏教を推し進めたはずの聖徳太子ですが、冠位十二階を見ると、「徳・仁・礼・信・義・智」となっていて、これは明らかに儒教の考え。
●儒教では大事なものとして「五常」があり、この順番を「仁義礼智信」と表記します。冠位12回の順番が変なのは、五行思想の木火土金水に対応しているためとされます。
●これが五行思想の影響ならば、聖徳太子は仏教・儒教・道教の思想を混ぜ込んで実務を取ろうとしていたということになります。
●これが五行思想の影響ならば、聖徳太子は仏教・儒教・道教の思想を混ぜ込んで実務を取ろうとしていたということになります。
この冠位の名前は日本独自のもの。朝鮮半島(百済や新羅や高句麗)にも役人の官位はあったが、それを冠と結びつけたものはなく、また冠位の名前も全然違う。
つまり、聖徳太子は仏教を推し進めつつ、儒教の感覚を取り入れて実務に取り組んでいったということになります。
位を設けることや、上下関係を持ち込むことは、政治を安定させるには重要なことで、むしろこれまでの日本の「和」の感覚では、国家運営は行き詰まるという考えが聖徳太子にはあったんじゃないかと思われます。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
推古天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page13 推古天皇(十三)百済の僧の観勒・暦と天文地理と遁甲方術
- Page14 推古天皇(十四)来目皇子の死・周芳の娑婆に殯
- Page15 推古天皇(十五)当麻皇子の出征と妻の舎人姫王の死
- Page16 推古天皇(十六)秦造河勝と蜂岡寺・大楯と靭と旗幟を用意する
- Page17 推古天皇(十七)冠位十二階の実施
- Page18 推古天皇(十八)憲法十七条
- Page19 推古天皇(十九)礼を改める・黄書画師と山背画師
- Page20 推古天皇(二十)鞍作鳥と仏像・高麗の大興王の三百両
- Page21 推古天皇(二十一)元興寺の金堂の戸より大きな仏像なので入らない
スポンサードリンク