来目皇子の死・周芳の娑婆に殯

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推古天皇(十四)来目皇子の死・周芳の娑婆に殯

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原文

十一年春二月癸酉朔丙子、來目皇子薨於筑紫。仍驛使以奏上、爰天皇聞之大驚、則召皇太子・蘇我大臣、謂之曰「征新羅大將軍來目皇子薨之。其臨大事而不遂矣、甚悲乎。」仍殯于周芳娑婆。乃遣土師連猪手令掌殯事、故猪手連之孫曰娑婆連、其是之緣也。後葬於河內埴生山岡上。

現代語訳

即位11年春2月4日。来目皇子(クメノミコ)は筑紫で亡くなりました。駅の使者を使って申し上げました。天皇はそれを聞いて大いに驚き、皇太子(=厩戸皇子)と蘇我大臣を呼び寄せて、謂(ミコトノリ)して言いました。
新羅を征伐する大将軍の来目皇子が亡くなった。大きな事(=新羅征伐の事)に挑み臨んで、遂げる事は出来なかった。なんという悲しい事か!」
それで周芳(スワノクニ=現在の山口県)の娑婆(サバ=周防国佐波郡=山口県防府市) に殯(モガリ)しました。すぐに土師連猪手(ハジノムラジイテ)を派遣して、殯(モガリ)の事を司らせました。それで猪手連(イテノムラジ)の孫を娑婆連(サバノムラジ)といいます。それはこの縁からです。後に、河内の埴生山(ハニュウノヤマ=大阪府羽曳野市埴生野)の岡の上に葬りました。
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解説

なぜ死んだか
現在では科学的な考え方を持っているものですが、古代では、神霊が司っている分野は非常に大きかったはずです。
その中で病気は特に神霊が起こすと考えていました。新羅征伐へ向かった来目皇子が病気で死んだ。今なら、ただ病気になった。運が悪かった。誰だって病気になるのだから。と考えますが、古代では違います。何か、神への不敬があった。新羅征伐は神が望んでいない。間違った行動だった。そう考えます。

新羅征伐はこの後、失敗に終わります。
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