百済の僧の観勒・暦と天文地理と遁甲方術

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推古天皇(十三)百済の僧の観勒・暦と天文地理と遁甲方術

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原文

冬十月、百濟僧觀勒來之、仍貢曆本及天文地理書幷遁甲方術之書也。是時、選書生三四人以俾學習於觀勒矣。陽胡史祖玉陳、習曆法。大友村主高聰、學天文遁甲。山背臣日立、學方術。皆學以成業。閏十月乙亥朔己丑、高麗僧々隆・雲聰共來歸。

現代語訳

(即位10年)冬10月。百済の僧(ホウシ=法師)の観勒(カンロク)がやって来ました。暦の本(タメシ)と天文地理の書、それと合わせて遁甲(トンコウ=占星術?)・方術(ホウジュツ=医術関係の占い)を献上しました。この時、書生(フミマナブルヒト)は3、4人を選んで観勒(カンロク)に学び習わせました。陽胡史(ヤゴノフビト)の祖先の玉陳(タマフル)は暦法を習いました。大友村主高聡(オオトモノスグリコウソウ)は天文遁甲を学びました。山背臣日立(ヤマシロノオミヒタテ)は方術を学びました。皆、学業を成しました。
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解説

仏教の僧は、「仏教」を伝えるというよりは、「学」を伝えるという性質が強かったよう。日本から見れば、本が無かったはずですから、それも当然だったのかも。その後、全国に国分寺・国分尼寺が建てられるのですが、ここには学校が併設されていました。

日本では正式に暦が採用されたのは持統天皇の時代とされますが、暦はそれ以前にもあったはずです。では、それがこの推古天皇の時代だったのかというと、まさか、推古天皇の時代に初めて暦がやってきたとはちょっと考えにくい。しかし、この時代に暦法の一つがやってきたのは間違いありません。
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