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推古天皇(十五)当麻皇子の出征と妻の舎人姫王の死
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夏四月壬申朔、更以來目皇子之兄當麻皇子、爲征新羅將軍。秋七月辛丑朔癸卯、當麻皇子、自難波發船。丙午、當麻皇子到播磨。時、從妻、舍人姫王薨於赤石、仍葬于赤石檜笠岡上。乃當麻皇子返之、遂不征討。冬十月己巳朔壬申、遷于小墾田宮。
現代語訳
(即位11年)夏4月1日。さらに来目皇子(クメノミコ)の兄の当麻皇子(タギマノミコ)を新羅を征伐する将軍としました。
秋7月3日。当麻皇子は難波から船で出発しました。
6日。当麻皇子は播磨(ハリマ)に到着しました。その時、付き従っていた妻の舎人姫王(トネリノヒメオオキミ=欽明天皇の皇女)が赤石(アカシ=播磨国赤石郡=当時は明石・加古・印南・美嚢で「明石」という一国だった)で亡くなりました。それで
赤石の檜笠岡(ヒカサノオカ)の上に葬りました。すぐに当麻皇子は帰りました。ついに征伐はしませんでした。
冬10月4日。推古天皇は小墾田宮(オハリダノミヤ)に移りました。
秋7月3日。当麻皇子は難波から船で出発しました。
6日。当麻皇子は播磨(ハリマ)に到着しました。その時、付き従っていた妻の舎人姫王(トネリノヒメオオキミ=欽明天皇の皇女)が赤石(アカシ=播磨国赤石郡=当時は明石・加古・印南・美嚢で「明石」という一国だった)で亡くなりました。それで
赤石の檜笠岡(ヒカサノオカ)の上に葬りました。すぐに当麻皇子は帰りました。ついに征伐はしませんでした。
冬10月4日。推古天皇は小墾田宮(オハリダノミヤ)に移りました。
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解説
前のページで来目皇子が病気で死に、次に新羅征伐に駆り出されたのが兄の当麻皇子が駆り出されたのですが、今度は当麻皇子の妻が死亡。これは神のお告げだとは書いていませんか、まぁ、みんなの間に、「新羅征伐を神が望んでいない」という雰囲気が生まれたのでしょう。それに死んだ妻ってのが霊力が強いはずの皇女となると尚更です。
これは関係あるかどうかは分かりませんが、崇峻天皇も任那再建を目指して朝鮮半島に派兵しています。しかし、その直後に蘇我馬子に暗殺されています。
どうも、臣下はそもそも任那再建にあまり興味がなかったんじゃないでしょうか。今回の新羅征伐の中心は聖徳太子と皇子たちです。これまで日本が新羅へ派兵しても、将軍は臣下でした。まぁ、それだけ今回は本気、という見方もできますよ。
もしかしたら臣下と天皇や皇族の間に任那や朝鮮半島に対する姿勢に違いあったのかも。
これは関係あるかどうかは分かりませんが、崇峻天皇も任那再建を目指して朝鮮半島に派兵しています。しかし、その直後に蘇我馬子に暗殺されています。
どうも、臣下はそもそも任那再建にあまり興味がなかったんじゃないでしょうか。今回の新羅征伐の中心は聖徳太子と皇子たちです。これまで日本が新羅へ派兵しても、将軍は臣下でした。まぁ、それだけ今回は本気、という見方もできますよ。
もしかしたら臣下と天皇や皇族の間に任那や朝鮮半島に対する姿勢に違いあったのかも。
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推古天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page11 推古天皇(十一)斑鳩宮と耳梨行宮・新羅のスパイの迦摩多
- Page12 推古天皇(十二)来目皇子は筑紫で新羅討伐の準備をする
- Page13 推古天皇(十三)百済の僧の観勒・暦と天文地理と遁甲方術
- Page14 推古天皇(十四)来目皇子の死・周芳の娑婆に殯
- Page15 推古天皇(十五)当麻皇子の出征と妻の舎人姫王の死
- Page16 推古天皇(十六)秦造河勝と蜂岡寺・大楯と靭と旗幟を用意する
- Page17 推古天皇(十七)冠位十二階の実施
- Page18 推古天皇(十八)憲法十七条
- Page19 推古天皇(十九)礼を改める・黄書画師と山背画師
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