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推古天皇(十二)来目皇子は筑紫で新羅討伐の準備をする
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十年春二月己酉朔、來目皇子、爲擊新羅將軍、授諸神部及国造伴造等幷軍衆二萬五千人。夏四月戊申朔、將軍來目皇子到于筑紫、乃進屯嶋郡而聚船舶運軍粮。六月丁未朔己酉、大伴連囓・坂本臣糖手共至自百濟、是時、來目皇子臥病以不果征討。
現代語訳
即位10年春2月1日。来目皇子(クメノミコ)を新羅を撃つ将軍としました。諸々の神部(カムトモノオ)と国造(クニノミヤツコ)・伴造(トモノミヤツコ)たち、合わせて軍衆(イクサ=軍隊)2万5千人を授けました。
夏4月1日。将軍、来目皇子は筑紫に到着しました。すぐに進んで嶋郡(シマノコオリ=筑前国志摩郡=現在の福岡県糸島郡北半)に駐屯して、船舶を集めて、軍の粮(カテ=食料)を運びました。
6月3日。大伴連囓(オオトモノムラジクイ)・坂本臣糖手(サカモトノオミアラテ)はともに百済から到着しました。この時、来目皇子は病気に臥していて、征討できませんでした。
夏4月1日。将軍、来目皇子は筑紫に到着しました。すぐに進んで嶋郡(シマノコオリ=筑前国志摩郡=現在の福岡県糸島郡北半)に駐屯して、船舶を集めて、軍の粮(カテ=食料)を運びました。
6月3日。大伴連囓(オオトモノムラジクイ)・坂本臣糖手(サカモトノオミアラテ)はともに百済から到着しました。この時、来目皇子は病気に臥していて、征討できませんでした。
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解説
25000人という大きな軍隊を率いて、筑紫へとやってきて着々と準備を進める来目皇子。神部というのは神と関わる氏族のこととされます。有名な中臣氏や斎部・援女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績とも言われますが、ハッキリとはしていません。彼らはおそらく、戦争勝利を祈願するものとして連れて行かれたのでしょう。
聖徳太子は仏教を取り入れ、その中で新羅征伐を計画したのですが、それでも神道を「捨てた」などということはなく、あくまで仏教を積極的に取り入れただけってことです。
百済から
大伴連囓(オオトモノムラジクイ)は高麗に派遣して、坂本臣糠手(サカモトノオミアラテ)は百済に派遣しています。彼らが百済経由で筑紫に帰ってきたのです。
聖徳太子は仏教を取り入れ、その中で新羅征伐を計画したのですが、それでも神道を「捨てた」などということはなく、あくまで仏教を積極的に取り入れただけってことです。
百済から
大伴連囓(オオトモノムラジクイ)は高麗に派遣して、坂本臣糠手(サカモトノオミアラテ)は百済に派遣しています。彼らが百済経由で筑紫に帰ってきたのです。
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推古天皇(日本書紀)の表紙へ
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- Page9 推古天皇(九)境部臣と穂積臣による新羅討伐
- Page10 推古天皇(十)船の舵を乾かさないよう、毎年必ず朝廷に参上します
- Page11 推古天皇(十一)斑鳩宮と耳梨行宮・新羅のスパイの迦摩多
- Page12 推古天皇(十二)来目皇子は筑紫で新羅討伐の準備をする
- Page13 推古天皇(十三)百済の僧の観勒・暦と天文地理と遁甲方術
- Page14 推古天皇(十四)来目皇子の死・周芳の娑婆に殯
- Page15 推古天皇(十五)当麻皇子の出征と妻の舎人姫王の死
- Page16 推古天皇(十六)秦造河勝と蜂岡寺・大楯と靭と旗幟を用意する
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