スポンサードリンク
推古天皇(三十七)羽田の薬猟
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocket原文
夏五月五日、藥獵之、集于羽田、以相連參趣於朝、其裝束如菟田之獵。
現代語訳
(即位20年)夏5月5日。薬猟をして、羽田(ハタ=大和国高市郡波多郷=現在の奈良県高市郡高取町)に集まり、連なって朝廷に参上しました。その装束は菟田(ウダ)の雁の時のようでした。
性格・能力
前年の5月5日に同じように薬猟をしています。
ここでのポイントは日付が干支で書かれていないことです。これは元ネタの記述が干支で書かれていないから、それに準拠したのでしょう。それはつまり、日本書紀が引用を真面目にやっている証拠ではないかと。
ここでのポイントは日付が干支で書かれていないことです。これは元ネタの記述が干支で書かれていないから、それに準拠したのでしょう。それはつまり、日本書紀が引用を真面目にやっている証拠ではないかと。
スポンサードリンク
SNSボタン
TWEET Facebook はてブ Google+ Pocketページ一覧
推古天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page33 推古天皇(三十三)新羅と任那の使者の歓待と儀式
- Page34 推古天皇(三十四)十九年夏五月五日、菟田野での薬猟
- Page35 推古天皇(三十五)蘇我馬子との歌い合い
- Page36 推古天皇(三十六)堅塩媛を檜隈大陵に改めて葬る
- Page37 推古天皇(三十七)羽田の薬猟
- Page38 推古天皇(三十八)斑皮の百済人、路子工、別名を芝耆摩呂
- Page39 推古天皇(三十九)味摩之の伎楽の舞
- Page40 推古天皇(四十)最古の官道、竹内街道
- Page41 推古天皇(四十一)片岡の飢えた人の衣服と聖徳太子
スポンサードリンク