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推古天皇(三十六)堅塩媛を檜隈大陵に改めて葬る
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二月辛亥朔庚午、改葬皇太夫人堅鹽媛於檜隈大陵。是日、誄於輕術。第一、阿倍內臣鳥、誄天皇之命、則奠靈、明器・明衣之類萬五千種也。第二、諸皇子等、以次第各誄之。第三、中臣宮地連烏摩侶、誄大臣之辭。第四、大臣引率八腹臣等、便以境部臣摩理勢令誄氏姓之本矣。時人云「摩理勢・烏摩侶二人能誄、唯鳥臣不能誄也。」
現代語訳
(即位20年)2月20日。皇太夫人の堅塩媛(キタシヒメ=蘇我稲目の娘・欽明天皇の妃・推古天皇の母)を檜隈大陵(ヒノクマノオオミサザキ=欽明天皇陵)に改めて葬りました。この日に、軽(カル=現在の奈良県橿原市大軽)の術(チマタ=道)で誄(シノビゴトタテマツル=故人に言葉を掛けること)をしました。
第一に阿倍内臣鳥(アヘノウチノオミトリ)が天皇の命(オオミコト=言葉)を誄(シノビゴトタテマツル)しました。霊に奠(モノムク=供え物をすること)をしました。明器(ミケモノ=祭器)・明衣(ミケシ=喪服?)の類、15000種。
第二に諸々の皇子たちが、次々にそれぞれが誄(シノビゴトモウス)しました。
第三に中臣宮地連烏摩侶(ナカトミノミヤドコロノムラジオマロ)が大臣の辞(コトバ)を誄(シノビゴトタテマツル)しました。
第四に大臣は八腹臣(ヤハラノオミ)たちを率いて、境部臣摩理勢(サカイベノオミマリセ)に、氏姓(ウジカバネ)の本(モト=由来)を誄(シノビゴトモウス)させました。
その時代の人は言いました。
「摩理勢・烏摩侶は誄(シノビゴトモウス)がうまく出来たが、鳥臣だけは誄(シノビゴトモウス)が出来なかった」
第一に阿倍内臣鳥(アヘノウチノオミトリ)が天皇の命(オオミコト=言葉)を誄(シノビゴトタテマツル)しました。霊に奠(モノムク=供え物をすること)をしました。明器(ミケモノ=祭器)・明衣(ミケシ=喪服?)の類、15000種。
第二に諸々の皇子たちが、次々にそれぞれが誄(シノビゴトモウス)しました。
第三に中臣宮地連烏摩侶(ナカトミノミヤドコロノムラジオマロ)が大臣の辞(コトバ)を誄(シノビゴトタテマツル)しました。
第四に大臣は八腹臣(ヤハラノオミ)たちを率いて、境部臣摩理勢(サカイベノオミマリセ)に、氏姓(ウジカバネ)の本(モト=由来)を誄(シノビゴトモウス)させました。
その時代の人は言いました。
「摩理勢・烏摩侶は誄(シノビゴトモウス)がうまく出来たが、鳥臣だけは誄(シノビゴトモウス)が出来なかった」
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解説
堅塩媛(キタシヒメ)
堅塩媛は欽明天皇の妃。欽明天皇は皇后がいて、これは宣化天皇の娘の石姫という人物でした。つまり、堅塩媛ってのは有力者じゃないんですね。生没年もハッキリしません(皇后・妃は生没年がハッキリしないのは普通ですけど)。その堅塩媛を今更、かなり丁寧に祀るのは大臣の蘇我馬子から見て、堅塩媛が「姉」に当たるから…じゃなくて、推古天皇の母だから、というのが自然な理由だろうと思います。
堅塩媛は蘇我稲目の娘です。つまり皇女じゃないわけです。「皇女じゃない妃」から生まれた「女」である推古天皇が現在、「天皇」となっていることが「ダメ」だったんでしょう。だから堅塩媛を欽明天皇の墓に埋葬した。埋葬したってことは、それ以前は、欽明天皇の墓に埋葬されていなかったのではないかと思うのですね。一緒に埋葬するということは、欽明天皇の皇后か、それに匹敵するような地位ということになる。推古天皇の権威付けにはそれが必要だった。
ということは、推古天皇は次の天皇のための「中継ぎ」ではないということです。ガッツリ、推古天皇でやっていきますよ、と考えていた。
という記述を読めば、本気の度合いが分かります。まぁ、どの程度、史実かはわかりませんが、それでも、それが記述として残されるということは、大事なことだという認識があったということです。
堅塩媛は欽明天皇の妃。欽明天皇は皇后がいて、これは宣化天皇の娘の石姫という人物でした。つまり、堅塩媛ってのは有力者じゃないんですね。生没年もハッキリしません(皇后・妃は生没年がハッキリしないのは普通ですけど)。その堅塩媛を今更、かなり丁寧に祀るのは大臣の蘇我馬子から見て、堅塩媛が「姉」に当たるから…じゃなくて、推古天皇の母だから、というのが自然な理由だろうと思います。
堅塩媛は蘇我稲目の娘です。つまり皇女じゃないわけです。「皇女じゃない妃」から生まれた「女」である推古天皇が現在、「天皇」となっていることが「ダメ」だったんでしょう。だから堅塩媛を欽明天皇の墓に埋葬した。埋葬したってことは、それ以前は、欽明天皇の墓に埋葬されていなかったのではないかと思うのですね。一緒に埋葬するということは、欽明天皇の皇后か、それに匹敵するような地位ということになる。推古天皇の権威付けにはそれが必要だった。
ということは、推古天皇は次の天皇のための「中継ぎ」ではないということです。ガッツリ、推古天皇でやっていきますよ、と考えていた。
明器(ミケモノ=祭器)・明衣(ミケシ=喪服?)の類、15000種。
という記述を読めば、本気の度合いが分かります。まぁ、どの程度、史実かはわかりませんが、それでも、それが記述として残されるということは、大事なことだという認識があったということです。
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