片岡の飢えた人の衣服と聖徳太子

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推古天皇(四十一)片岡の飢えた人の衣服と聖徳太子

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原文

十二月庚午朔、皇太子、遊行於片岡。時飢者臥道垂、仍問姓名、而不言。皇太子視之與飲食、卽脱衣裳、覆飢者而言、安臥也。則歌之曰、

斯那提流 箇多烏箇夜摩爾 伊比爾惠弖 許夜勢屢 諸能多比等阿波禮
於夜那斯爾 那禮奈理雞迷夜 佐須陀氣能 枳彌波夜那祗 伊比爾惠弖 許夜勢留 諸能多比等阿波禮


辛未、皇太子遣使令視飢者。使者還來之曰、飢者既死。爰皇太子大悲之、則因以葬埋於當處、墓固封也。數日之後、皇太子召近習者謂之曰「先日臥于道飢者、其非凡人、必眞人也。」遣使令視。於是、使者還來之曰「到於墓所而視之、封埋勿動。乃開以見、屍骨既空、唯衣服疊置棺上。」於是、皇太子復返使者令取其衣。如常且服矣。時人大異之曰「聖之知聖、其實哉。」逾惶。
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現代語訳

(即位21年)12月1日。皇太子は片岡(カタオカ=現在の奈良県北葛城郡香芝町今泉)に行きました。その時、飢えた人が道のほとりに伏せていました。姓名を問いました。しかし、何も言いませんでした。皇太子は飲食物を与えました。衣裳(ミケシ=衣服)を脱いで飢えた人を覆って、言いました。
「安らかに、伏せてください」
それで歌を歌いました。

しなてる 片岡山(カタオカヤマ)に 飯(イイ)に餓(エ)て 臥(コヤ)せる その田人(タヒト=旅人)あはれ 親無しに 汝(ナレ)生(ナ)りけめや さす竹の 君はや無き 飯に餓て 臥せる その田人(タヒト=旅人)あはれ
歌の訳(「しなてる」は片岡山にかかる枕詞)片岡山で食べ物に飢えて倒れている旅人はかわいそう。親もなく、お前は生まれたのか、(「さすたけの」は君の枕詞)仕える君主はいないのか、優しい恋人はいないのか、食べ物に飢えて、倒れている旅人はかわいそうだ。

2日。皇太子は使者を派遣して、飢えた人を視察させました。使者は帰って来て言いました。
「飢えたものはすでに死んでいました」
皇太子は大いに悲しみました。すぐにその場所に葬りました。墓(ツカ)を固く封じました。数日後、皇太子はその近くに仕えている人を呼び寄せて言いました。
「この前の日に、道に伏せて倒れていた飢えた人は、凡人ではない。必ず真人(ヒジリ=聖者)だろう」
使者を派遣して視察させました。使者が帰って来て言いました。
「墓(ツカ)のところに到着して見ると、固めて封じて埋めて動いていませんでした。開いてみると、屍骨(カバネ)は既に空でした。ただ衣服(ミケシ)を畳んで、棺の上に置いてありました」
皇太子は、また使者を返して、その衣服を取らせました。いつものようにまた衣服を着ました。その時代の人はとても不思議がって言いました。
「聖者が聖者を知る。それは真実だなぁ」
いよいよ皇太子に畏まりました。
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解説

墓を見たら遺体が無いというのは、よくある話です。ここの問題は「遺体の服を着る」ということです。日本の風習では死者は穢れています。その穢れを日本人は嫌います。というのも日本は湿度が高く、遺体が腐って病気になり、疫病が広がります。

だから日本人は穢れをひどく嫌います。神社の境内では殺生は禁じていますし、神社の敷地内では葬式はしません。それだけ死体の穢れを嫌うのですね。

ところが聖徳太子(=皇太子)は恐れず、死者が着ていた服を着るのです。これができるのは皇太子が仏教に帰依して、穢れの概念を捨てていたからです。
もちろん史実ではないでしょうが
無論、史実とは違うでしょうが、聖徳太子のその時代での特殊さを表す物語として、語られたのでしょう。
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