桃李の実り・夜勾人の帰化

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推古天皇(四十四)桃李の実り・夜勾人の帰化

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原文

廿四年春正月、桃李實之。三月、掖玖人三口歸化。夏五月、夜勾人七口來之。秋七月、亦掖玖人廿口來之。先後幷卅人、皆安置於朴井、未及還皆死焉。秋七月、新羅遣奈末竹世士貢佛像。

廿五年夏六月、出雲国言、於神戸郡有瓜、大如缶。是歲、五穀登之。

現代語訳

即位24年春1月。桃季(モモスモモ)が実りました。
3月。掖玖人(ヤクビト=屋久島の人)が3口、帰化しました。
夏5月。掖玖人(ヤクビト)が7口、来ました。
秋7月。また、掖玖人(ヤクビト)が20口、来ました。前のと合わせて30人。全員を朴井(エノイ=奈良市西木辻町榎葉井か岸和田市西之内か)。まだ帰っておらず、全員が死んでしまいました。
秋7月。新羅は奈末竹世士(マナチクセイシ)を派遣して、仏像を献上しました。

即位25年夏6月。出雲国が言いました。
「神戸郡(カムトノコオリ=出雲国神門郡=現在の島根県出雲市南半)に瓜があります。大きさは缶(ホトキ=太い水の器)のようです」
この年、五穀(イツツノタナツモノ)がよく実りました。
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解説

桃季
桃とか季は夏から秋にかけて実るもので、それが1月になるってのは吉兆か凶兆かはわかりませんが、何かの兆しではあるわけです。即位25年の五穀が実ったという記事と連動しているのかも。
屋久島の人
屋久島の人が日本にやって来ました。ただやって来ただけでなく、どうやら大和の近くに住んでいたよう。これはすごいことです。というのも、仲哀天皇は熊襲…鹿児島などの九州南部を勢力下に置こうとして、失敗し、死んでしまったのです。その後、神功皇后が朝鮮半島へと進出し、中国の文化は朝鮮半島を経由して得るようになったのですが、おそらく仲哀天皇の本来の目的は「九州南部」だったのですね。

沖縄は古くから要衝で、そこから東南アジアの貿易航路が目的だった。

朝鮮半島は妥協案だった。そこで我慢していたのですが、屋久島とのつながりが出来たとなると、朝鮮半島に固執する理由は無くなってしまいます。
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