熊曽建(クマソタケル)

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熊曽建

投稿日時:2017-10-26 20:39:51
漢字・読みクマソタケル
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熊曽建(クマソタケル)

熊曽建(クマソタケル)は古事記に登場する人物名。古事記によれば「兄弟」。日本書紀では兄弟という記述はない。クマソタケルという言葉は熊襲という地域の「タケル」…強い男という意味。なので個人名ではないです。

日本書紀でも「熊襲梟師(クマソタケル)」という対応する単語が見られるが、これは個人名ではなく、別に個人名として「取石鹿文(トロシカヤ)」もしくは「川上梟師(カワカミタケル)」だと書いてある。熊襲梟師は単に「熊襲の強い男」という意味で特定の人物をささず、ヤマトタケルが退治した「クマソタケル(=取石鹿文)」とは別に、熊襲八十梟帥(クマソノヤソタケル)という言い方ではあるんですが「厚鹿文(アツカヤ)・迮鹿文(サカヤ)」という人物も見られます。

また、景行天皇の策略によって、自身の娘に殺された熊襲梟師も描かれている。
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物語・由来

古事記によれば
●小碓が兄の大碓を殺害し、父の景行天皇は小碓が恐ろしくなる。
●クマソタケルは従わないから征伐を小碓に命じる。
●小碓は叔母の倭比売命から女物の服と剣を貰い受けて「一人で」九州へ。
●熊襲では軍が家を作っていて、新築祝いの宴会が始まる。
●宴会が始まると兄弟の間に女装した小碓が座る。
●宴もたけなわで、クマソタケルの兄の胸を刺して殺害。
●クマソタケルの弟のお尻を刺す。
●小碓が景行天皇の皇子であることを告白。
倭建御子ヤマトタケルノミコ)の名前を弟から貰う。

日本書紀によれば
●小碓による大碓殺害は日本書紀にはない。
●熊襲が辺境へ侵入したので「日本武尊」を派遣。
●美濃国の弟彦公・石占横立・尾張の田子稲置・乳近稲置を従者にして九州へ。
●国の状況を調査している。
●川上梟師は宴会をしていて、日本武尊は女装して参加(古事記にように倭姫から女物の服を借りていない)。剣を敷物に隠す。
●川上梟師は女装した日本武尊を愛でてまさぐっている。
●川上梟師の胸を刺す。
●日本武皇子(ヤマトタケルノミコ)の名前を貰う。
●殺害し、残りの氏族は弟彦たちに殺させた。
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古事記からの引用

オウス命は倭比売命から援助を受ける
景行天皇は子供のオウス命の猛々しく荒々しい性格を見て
「西に熊曽建(クマソタケル)というものが二人居る。彼らは従わないものどもだ。お前は西に向かい、彼らを討て」
と言い、オウス命を派遣しました。

熊曽建(クマソタケル)の家にたどり着いて見ると、その家の周囲には軍が三重に取り囲んで、家を作っていました。そこで新築祝いの宴会を開くと騒いでいて、食べ物を準備していました。

クマソタケル兄弟を征伐
すると熊曽建(クマソタケル)の兄弟の二人はオウス命が化けた少女を見て気に入り、兄弟の間に座らせて、酒盛りしました。

熊曽の弟は恐ろしくなって逃げ出しました。
すぐにオウス命は追いかけ、その家の階段の下へと追っていき、背中の皮を捕まえ、剣を尻から突き刺した。
その熊曽建が言いました。
「その刀を動かさないでくれ。
言いたいことがある」
それでオウス命は剣を動かさず、熊曽建を押し伏せた。

オウス命は名乗る
お前達、熊曽建(クマソタケル)二人が、従わず無礼だと景行天皇は聞き、殺してしまえと派遣されたのだ」
と言いました。

ヤマトタケルのクマソ征伐
熊曽建は言いました。
「まさにその通りでしょう。
西には我らを除いて強いものは居ない。
しかし、大和には我らよりも強い男がいた。
私の名前を献上しよう。
これより倭建御子(ヤマトタケルノミコ)名乗れ」
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日本書紀の対応箇所

景行天皇(十二)熊襲八十梟帥の娘の市乾鹿文と市鹿文
12月5日。熊襲(クマソ)を討つことを話し合いました、そこで天皇は群卿(マヘツキミタチ=部下)に言いました。
「わたしは襲国(ソノクニ)に厚鹿文(アツカヤ)・迮鹿文(サカヤ)という者がいると聞いた。この二人は熊襲の渠帥者(イサオ=勇ましい人)だ。衆類(トモガラ=仲間・部下)は多い。これを熊襲八十梟帥(クマソノヤソタケル)と言う。
……
すると一人の臣(マヘツキミ)が進み出ていいました。
「熊襲梟帥(クマソタケル)には二人の娘がいます。姉を市乾鹿文(イチフカヤ)といいます。
乾は賦(フ)と読みます。
妹は市鹿文(イチカヤ)といいます。
容姿は美しく、心は雄々しいです。
たくさんの幣(マヒナヒ=贈り物)を示して、麾下(オモト=幕下=幕は幕府と同じで出陣中の状態を表す言葉。よって戦争しているときの妃が入る場所のこと)に召し入れるべきです。それで、その消息(アルカタチ=熊襲梟師の居所)を聞いて、不意にそこを襲えば、刃を血濡らさずに賊(アタ)は自然と必ず破れるでしょう」

景行天皇(十三)不孝をひどく憎み誅殺
それで市乾鹿文は家に帰って、非常に醇(カラ=辛い=アルコールが強い)い酒を用意して、自ら父に飲ませました。すぐに酔っ払って寝てしまいました。市乾鹿文は密かに父の弓の弦を切ってしまいました。ここに従えてきた兵の一人が進んできて熊襲梟師(クマソタケル)を殺してしまいました。

景行天皇(二十五)川上梟師の宴会と暗殺
(即位27年)12月に熊襲国(クマソノクニ)に到着しました。それでその国の消息(アルカタチ=百姓や人民の様子・人口)や地形の様子を視察しました。そのときに熊襲梟師(クマソタケル=熊襲の強者)というべき人物がいました。名前を取石鹿文(トロシカヤ)といいます。または川上梟師(カワカミタケル)といいます。

景行天皇(二十六)日本童男から日本武皇子へ
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