日本童男から日本武皇子へ

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景行天皇(二十六)日本童男から日本武皇子へ

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原文

未及之死、川上梟帥叩頭曰「且待之、吾有所言。」時日本武尊、留劒待之、川上梟帥啓之曰「汝尊誰人也。」對曰「吾是大足彦天皇之子也、名曰本童男也。」川上梟帥亦啓之曰「吾是国中之强力者也、是以、當時諸人、不勝我之威力而無不從者。吾、多遇武力矣、未有若皇子者。是以、賤賊陋口以奉尊號、若聽乎。」曰「聽之。」卽啓曰「自今以後、號皇子應稱日本武皇子。」言訖乃通胸而殺之。故至于今、稱曰日本武尊、是其緣也。然後、遣弟彦等、悉斬其黨類、無餘噍。既而、從海路還倭、到吉備、以渡穴海。其處有惡神、則殺之。亦比至難波、殺柏濟之惡神。濟、此云和多利。
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現代語訳

ヤマトタケルは川上梟師の胸を刺したが)それでも死なないでいた。川上梟師は頭を床に叩きつけて(=土下座して)言いました。
「しばし、待ってください。
わたしには言いたいことがあります」
日本武尊(ヤマトタケルミコト)は剣を押しとどめて待ちました。川上梟師はいいました。
「あなたは誰ですか?」
日本武尊は答えて言いました。
「わたしはあの大足彦天皇(オオタラシヒコノスメラミコト)の子、名を日本童男(ヤマトオグナ)という」
川上梟師はまた言いました。
「わたしは、この国の中の強力者(チカラヒト)です。そのために諸々の人々はわたしの威力(チカラ)に勝てず、従わないものはいない。わたしは沢山の武力(チカラヒト=武人)に会ってきたが、いまだの皇子のような人には会ったことが無かった。だから、賤(イヤ)しい賊(ヤッコ)の陋(イヤ)しい口で尊号(ミナ=名前)を奉ろうではないか。もしも、それが許されるのであればっ!」
「許そう」
すぐに川上梟師は言いました。
「これより以後、皇子を名付けよう!
日本武皇子(ヤマトタケルノミコ)と名乗ってください!」
言葉が終わると、すぐに胸を貫通させて殺しました。それで現在でも日本武尊(ヤマトタケルノミコト)と褒め讃えるのです。このお話はその由縁です。

このあとに弟彦(オトヒコ)達を派遣して、すべてのその党類(トモガラ=仲間=一族)を切らせました。残る者はありませんでした。

終わると海路から大和に帰りました。吉備に到着し穴海(広島県福山市の海)を渡りました。その場所に荒ぶる神がありましら。それを殺しました。また、難波に到着しました。難波に到着して、柏済(カシワノワタリ)の荒ぶる神を殺しました。
濟は和多利(ワタリ)と読みます

古事記の対応箇所
オウス命は名乗る
ヤマトタケルのクマソ征伐
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解説

古事記には本来は出雲征伐の物語が
参考:ヤマトタケルとイズモタケル
古事記にはイズモタケルを策略でやっつける物語が残っているのですが、このネタは崇神天皇の「崇神天皇(二十二)イズモノフルネ(日本書紀)」のところで使っているので、日本書紀ではヤマトタケルの物語としては登場しません。
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