的邑の地名説話

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景行天皇(二十二)的邑の地名説話

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原文

八月、到的邑而進食。是日、膳夫等遺盞、故時人號其忘盞處曰浮羽、今謂的者訛也。昔筑紫俗號盞日浮羽。

現代語訳

(即位18年)8月に的邑(イクハノムラ=現在の福岡県浮羽郡)に到着して食事をしました。膳夫(カシワデ=食事を給仕する人)は盞(ウキ=酒杯)を忘れていってしまいました。それで、その時の人はその盞(ウキ)を忘れた場所を名づけて「浮羽(ウキハ)」といいます。現在、的(イクハ)というのは訛ったからです。昔の筑紫の俗人は盞(ウキ)を浮羽と名づけて呼んでいました。

解説

膳夫(カシワデ)が杯を置き忘れてしまって、それで杯の古代の名前である「盞(ウキ)」にちなんで、土地の名前が「浮羽(ウキハ)」になったというもの。杯のことを筑紫の人は「浮羽」とそもそも呼んでいたとも書いてあります。その浮羽が鈍って「イクハ」となった。という地名説話です。

しかし、景行天皇が関わる以前からこの土地はおそらく「ウキハ(もしくはイクハ)」という名前だったはずです。かといって、どうしてウキハなのかは分かりません。

もしも、景行天皇は無関係としても、この物語自体(酒杯が名前の由来という話)は本当で「杯」の「ウキ」が語源となっているのならば、この土地に陶工が居て、酒杯が有名だったと考えたほうが自然な感じが。地理上、朝鮮でも中国でも陶工がやって来てもなんらおかしくないです。

福岡県のうきは市は「一の瀬焼き」という陶芸が有名です。この一の瀬焼きは豊臣秀吉が朝鮮出兵の際に連れてきた朝鮮人陶工によって始まったとされ、日本書紀の記述とは関係がありません。ですが、当然ながらこの土地(うきは市)は「陶芸をするに適した環境」だったということです。それは古代でも変わらなかったハズです。

そもそも古代からこの土地に陶芸があり、それが地名になったという可能性もあるんじゃないかと思うのです。
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