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景行天皇(二十四)美濃国の弟彦公
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秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止。
冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。於是日本武尊曰「吾、得善射者欲與行。其何處有善射者焉。」或者啓之曰「美濃国有善射者、曰弟彦公。」於是日本武尊、遣葛城人宮戸彦、喚弟彦公。故、弟彦公、便率石占横立及尾張田子之稻置・乳近之稻置而來、則從日本武尊而行之。
冬十月丁酉朔己酉、遣日本武尊令擊熊襲、時年十六。於是日本武尊曰「吾、得善射者欲與行。其何處有善射者焉。」或者啓之曰「美濃国有善射者、曰弟彦公。」於是日本武尊、遣葛城人宮戸彦、喚弟彦公。故、弟彦公、便率石占横立及尾張田子之稻置・乳近之稻置而來、則從日本武尊而行之。
現代語訳
(即位27年)秋8月。熊襲が反抗して辺境(メグリホトリ)に侵入するのが止まらなくなりました。
冬10月13日。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を派遣して熊襲を撃たせました。そのとき16歳。そこで日本武尊は言いました。
「わたしは弓を射つのがうまい人を得て、一緒に行きたいと思っている。どこかに弓を射つのがうまい人はいないものか」
ある人が言いました。
「美濃国(ミノノクニ)に弓を射るのがうまい人が居ます。弟彦公(オトヒコキミ)といいます」
そこで日本武尊は葛城(カヅラキ)の人の宮戸彦(ミヤトヒコ)を派遣して、弟彦公を呼び寄せました。弟彦公はついでに石占横立(イシウラノヨコタチ)と尾張の田子稻置(タゴノイナキ)・乳近稻置(チチカノイナキ)を連れてきました。すぐに日本武尊に従ってついて行きました。
冬10月13日。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を派遣して熊襲を撃たせました。そのとき16歳。そこで日本武尊は言いました。
「わたしは弓を射つのがうまい人を得て、一緒に行きたいと思っている。どこかに弓を射つのがうまい人はいないものか」
ある人が言いました。
「美濃国(ミノノクニ)に弓を射るのがうまい人が居ます。弟彦公(オトヒコキミ)といいます」
そこで日本武尊は葛城(カヅラキ)の人の宮戸彦(ミヤトヒコ)を派遣して、弟彦公を呼び寄せました。弟彦公はついでに石占横立(イシウラノヨコタチ)と尾張の田子稻置(タゴノイナキ)・乳近稻置(チチカノイナキ)を連れてきました。すぐに日本武尊に従ってついて行きました。
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解説
古事記には無い
ヤマトタケルは古事記にも登場しますが、部下を引き連れる記述はありませんでした。その代わり、ヤマトタケル(オウスノミコト)の双子の兄である「大碓命(オオウスノミコト)」との関係が描かれています。
上記の話はおそらくハイヌウェレ神話を組み込んだものではないかと、思います。まぁ、それはともかく、ここでも「美濃国」というキーワードが登場しています。
美濃国がこの時代において強い影響力があったのではないか?とおもわれますが、ハッキリしません。
石占・田子・乳近
石占は三重県桑名市。田子は現在の名古屋市瑞穂区。乳近は未詳だけどのも、弟彦公は美濃で木曽川の上流にあたる。木曽川は桑名市を流れます。名古屋には熱田神宮があり、熱田神宮というと草薙剣がある。と、考えると、美濃・尾張などのこの地域には鉄から武器を作り、また兵士を供給する土台があったんじゃないかと思われます。
でも、個人的な疑問としては、なぜそんな地域が大和朝廷(天皇・ここでは日本武尊)の命を受けて、戦争に加担するのか?です。
おそらく九州以外の、中四国と畿内とそれより東の国は「航路」を欲していたんじゃないか?と思うのです。崇神天皇の時代の記述に儒教の影響が見られて、神武天皇の記述に見られないということは、大和は絶えず外国の文化を吸収していたということです。ということは貿易をしていたハズです。
それで崇神天皇の時代に戸籍を作って税を取るようになり、国が強くなった。さらに強くなるにはどうするべきか? 九州が必要です。九州から文化が入ってくるのですから、ここを落とせば発展は間違いない。それは大和だけではない。尾張や美濃でも同様だった。発展するためには、大和と組んで九州を勢力下に置くべきという判断があった。共同戦線です。それがこのページの記述に反映されているのではないか?と思うのです。
ヤマトタケルは古事記にも登場しますが、部下を引き連れる記述はありませんでした。その代わり、ヤマトタケル(オウスノミコト)の双子の兄である「大碓命(オオウスノミコト)」との関係が描かれています。
美濃国の兄比売・弟比売が美人だと知った景行天皇は大碓命に命じて兄比売・弟比売を呼び寄せるのですが、この姉妹を大碓命も気に入って、別の姫を父である景行天皇に差し出して、姉妹は自分のものにしてしまいます。それで、関係が気まずくなったのですが、ある日、小碓命(=ヤマトタケル)は兄の大碓命をトイレから出たところで、捕まえて手足を引きちぎって殺してしまいます。
参考大碓命 オウス命の蛮行
参考大碓命 オウス命の蛮行
上記の話はおそらくハイヌウェレ神話を組み込んだものではないかと、思います。まぁ、それはともかく、ここでも「美濃国」というキーワードが登場しています。
美濃国がこの時代において強い影響力があったのではないか?とおもわれますが、ハッキリしません。
石占・田子・乳近
石占は三重県桑名市。田子は現在の名古屋市瑞穂区。乳近は未詳だけどのも、弟彦公は美濃で木曽川の上流にあたる。木曽川は桑名市を流れます。名古屋には熱田神宮があり、熱田神宮というと草薙剣がある。と、考えると、美濃・尾張などのこの地域には鉄から武器を作り、また兵士を供給する土台があったんじゃないかと思われます。
でも、個人的な疑問としては、なぜそんな地域が大和朝廷(天皇・ここでは日本武尊)の命を受けて、戦争に加担するのか?です。
おそらく九州以外の、中四国と畿内とそれより東の国は「航路」を欲していたんじゃないか?と思うのです。崇神天皇の時代の記述に儒教の影響が見られて、神武天皇の記述に見られないということは、大和は絶えず外国の文化を吸収していたということです。ということは貿易をしていたハズです。
それで崇神天皇の時代に戸籍を作って税を取るようになり、国が強くなった。さらに強くなるにはどうするべきか? 九州が必要です。九州から文化が入ってくるのですから、ここを落とせば発展は間違いない。それは大和だけではない。尾張や美濃でも同様だった。発展するためには、大和と組んで九州を勢力下に置くべきという判断があった。共同戦線です。それがこのページの記述に反映されているのではないか?と思うのです。
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