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景行天皇(二十八)大碓皇子を美濃国に封じる
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卌年夏六月、東夷多叛、邊境騷動。秋七月癸未朔戊戌、天皇詔群卿曰「今東国不安、暴神多起、亦蝦夷悉叛、屢略人民。遣誰人以平其亂。」群臣皆不知誰遣也。日本武尊奏言「臣則先勞西征、是役必大碓皇子之事矣。」時大碓皇子愕然之、逃隱草中。則遣使者召來、爰天皇責曰「汝不欲矣、豈强遣耶。何未對賊、以豫懼甚焉。」因此、遂封美濃、仍如封地、是身毛津君・守君、凡二族之始祖也。
現代語訳
即位40年の夏6月。東の夷(ヒナ=異民族)がたくさん叛(ソム)いて、辺境(ホトリ)が騒がしく動きました。
秋7月16日。天皇は群卿(マヘツノキミタチ)に言いました。
「今、東国安(アズマノクニ=関東地方)が平安ではなく、荒ぶる神がたくさんと居る。蝦夷は皆、叛いて、しばしば人民を奪う。誰を遣わして、その乱れを平定しようか」
群臣は誰を派遣すればよいかとも解りませんでした。
すると日本武尊(ヤマトタケル)は言いました。
「臣(ヤツカレ=自分)は西の国を征伐して、疲れております。この役(エダチ=役割とか仕事とか)は必ず大碓皇子(オオウスノミコ=日本武尊の兄)の仕事にしてください」
すると大碓皇子は怖気付いて、草の中に逃げ隠れました。すぐに使者を遣わせて、呼び寄せました。
天皇は大碓皇子を責めて言いました。
「お前が望まないのに、どうして無理に派遣するだろうか。それにしてもどうして、まだ賊(アタ=敵)に対峙していないのに、敵の武力にひどく恐れるのかっ!」
それで遂に大碓皇子を美濃に封じました。大碓皇子はその土地(=美濃)へと行きました。大碓皇子は身毛津君(ムゲツキミ)・守君(モリノキミ)の二つの族の始祖です。
古事記の対応箇所
オオウス命の系譜
秋7月16日。天皇は群卿(マヘツノキミタチ)に言いました。
「今、東国安(アズマノクニ=関東地方)が平安ではなく、荒ぶる神がたくさんと居る。蝦夷は皆、叛いて、しばしば人民を奪う。誰を遣わして、その乱れを平定しようか」
群臣は誰を派遣すればよいかとも解りませんでした。
すると日本武尊(ヤマトタケル)は言いました。
「臣(ヤツカレ=自分)は西の国を征伐して、疲れております。この役(エダチ=役割とか仕事とか)は必ず大碓皇子(オオウスノミコ=日本武尊の兄)の仕事にしてください」
すると大碓皇子は怖気付いて、草の中に逃げ隠れました。すぐに使者を遣わせて、呼び寄せました。
天皇は大碓皇子を責めて言いました。
「お前が望まないのに、どうして無理に派遣するだろうか。それにしてもどうして、まだ賊(アタ=敵)に対峙していないのに、敵の武力にひどく恐れるのかっ!」
それで遂に大碓皇子を美濃に封じました。大碓皇子はその土地(=美濃)へと行きました。大碓皇子は身毛津君(ムゲツキミ)・守君(モリノキミ)の二つの族の始祖です。
古事記の対応箇所
オオウス命の系譜
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解説
大碓皇子は古事記との相違
古事記では景行天皇から奪った「三野国(=美濃国)」の兄比売・弟比売との間に生まれた子孫が書かれています。
このページでは弟の小碓(オウス)…つまり日本武尊(ヤマトタケル)の活躍に追いやられて景行天皇の意思によって「美濃」に「封じられた」という描かれ方なんですが、美濃といえば「景行天皇(二十四)美濃国の弟彦公」で、日本武尊が九州へと熊襲征伐に行く前に「弓がうまい人材」を求めた土地です。
どー考えても、美濃は「大事な土地」なのです。この文章では大碓は美濃に「左遷」でもさせられたかのような印象を受けますが、そんなことはあり得ない。大碓は大和朝廷にとって大事な土地を任せられる人物だった、はずです。
この物語の中で異常なのは「日本武尊」です。「崇神天皇(二十一)相夢で皇太子を判断する(日本書紀)」「垂仁天皇(十九)「お前たち、それぞれ欲しいものを言え」」では兄弟のうち兄が戦争(武力)、弟が天皇(宗教)という住み分けを行っていたのに対して、兄の大碓が美濃という…おそらくは東国進出の要衝を任される「戦争(武力)」担当でありながら、弟の日本武尊も戦争(武力)担当という妙な関係にあります。そして日本武尊は道半ばで死亡、天皇にはなれない。ところが日本武尊の子が次の次の仲哀天皇になるのです。
もしかして大碓と小碓は「同一人物」だったんじゃないでしょうか? もしくは景行天皇と日本武尊は同一人物だったんじゃないでしょうか? ここいらへんの話はまた別のページに書こうと思っています。
古事記では景行天皇から奪った「三野国(=美濃国)」の兄比売・弟比売との間に生まれた子孫が書かれています。
このページでは弟の小碓(オウス)…つまり日本武尊(ヤマトタケル)の活躍に追いやられて景行天皇の意思によって「美濃」に「封じられた」という描かれ方なんですが、美濃といえば「景行天皇(二十四)美濃国の弟彦公」で、日本武尊が九州へと熊襲征伐に行く前に「弓がうまい人材」を求めた土地です。
どー考えても、美濃は「大事な土地」なのです。この文章では大碓は美濃に「左遷」でもさせられたかのような印象を受けますが、そんなことはあり得ない。大碓は大和朝廷にとって大事な土地を任せられる人物だった、はずです。
この物語の中で異常なのは「日本武尊」です。「崇神天皇(二十一)相夢で皇太子を判断する(日本書紀)」「垂仁天皇(十九)「お前たち、それぞれ欲しいものを言え」」では兄弟のうち兄が戦争(武力)、弟が天皇(宗教)という住み分けを行っていたのに対して、兄の大碓が美濃という…おそらくは東国進出の要衝を任される「戦争(武力)」担当でありながら、弟の日本武尊も戦争(武力)担当という妙な関係にあります。そして日本武尊は道半ばで死亡、天皇にはなれない。ところが日本武尊の子が次の次の仲哀天皇になるのです。
もしかして大碓と小碓は「同一人物」だったんじゃないでしょうか? もしくは景行天皇と日本武尊は同一人物だったんじゃないでしょうか? ここいらへんの話はまた別のページに書こうと思っています。
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景行天皇(日本書紀)の表紙へ
- Page24 景行天皇(二十四)美濃国の弟彦公
- Page25 景行天皇(二十五)川上梟師の宴会と暗殺
- Page26 景行天皇(二十六)日本童男から日本武皇子へ
- Page27 景行天皇(二十七)西国遠征の報告
- Page28 景行天皇(二十八)大碓皇子を美濃国に封じる
- Page29 景行天皇(二十九)蝦夷の性質、日本武尊は神人
- Page30 景行天皇(三十)斧鉞を承り再拝し…
- Page31 景行天皇(三十一)東征の前に日本武尊は伊勢神宮へ
- Page32 景行天皇(三十二)焼津の地名説話と叢雲と草薙の剣
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