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景行天皇(二十五)川上梟師の宴会と暗殺
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十二月、到於熊襲国。因以、伺其消息及地形之嶮易。時、熊襲有魁帥者、名取石鹿文、亦曰川上梟帥、悉集親族而欲宴。於是日本武尊、解髮作童女姿、以密伺川上梟帥之宴時、仍佩劒裀裏、入於川上梟帥之宴室、居女人之中。川上梟帥、感其童女之容姿、則携手同席、舉坏令飲而戲弄。于時也更深、人闌、川上梟帥且被酒。於是日本武尊、抽裀中之劒、刺川上梟帥之胸。
現代語訳
(即位27年)12月に熊襲国(クマソノクニ)に到着しました。それでその国の消息(アルカタチ=百姓や人民の様子・人口)や地形の様子を視察しました。そのときに熊襲梟師(クマソタケル=熊襲の強者)というべき人物がいました。名前を取石鹿文(トロシカヤ)といいます。または川上梟師(カワカミタケル)といいます。
(川上梟師は)すべての親族(ウガラヤカラ)を集めて宴会をしようとしていました。そこで日本武尊は髪を解いて、童女の姿と成って密かに川上梟師の宴会に参加しました。そして剣を裀(ミソ=敷物)の裏に隠しておきました。川上梟師が宴会の部屋に入って、女たちの中に混じりました。川上梟師はその童女の容姿を愛でて、すぐに手を取って同席して、杯を挙げて酒を飲みつつ、戯れて弄(マサグ)りました。それで夜は更けて、参加者もまばらになりました。川上梟師はまだ酒に酔っていました。それで日本武尊は敷物の裏に隠した剣を抜き出し、川上梟師の胸を刺しました。
参考:クマソタケル兄弟を征伐
(川上梟師は)すべての親族(ウガラヤカラ)を集めて宴会をしようとしていました。そこで日本武尊は髪を解いて、童女の姿と成って密かに川上梟師の宴会に参加しました。そして剣を裀(ミソ=敷物)の裏に隠しておきました。川上梟師が宴会の部屋に入って、女たちの中に混じりました。川上梟師はその童女の容姿を愛でて、すぐに手を取って同席して、杯を挙げて酒を飲みつつ、戯れて弄(マサグ)りました。それで夜は更けて、参加者もまばらになりました。川上梟師はまだ酒に酔っていました。それで日本武尊は敷物の裏に隠した剣を抜き出し、川上梟師の胸を刺しました。
参考:クマソタケル兄弟を征伐
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解説
同様の物語が古事記にもあるが
参考:クマソタケル兄弟を征伐
相違点がいくつかあります。古事記ではヤマトタケルは叔母の倭姫からもらった女性の衣装を着て「女装」するのですが、日本書紀では叔母の倭姫のサポートはありません。
また古事記では「懐より剣を出し」とあるのに対して、日本書紀では「裀(=敷物)」に隠していて、それを抜き出したとあります。
あとは、古事記のクマソタケルが二人兄弟であるのに対して、日本書紀の川上梟師には「二人」という記述がないので、「一人」ということです。
日本の聖数字
日本の聖なる数字は「2」です。日本の神様は基本的に二人で一組になっています。この性質が様々な物語でも反映されています。ところがここでは「一人」ということは、日本書紀の神話の方が「史実」に近いんじゃないか?と個人的には思っています。
倭姫のサポート
だから古事記で描かれた倭姫の女装サポートは後付けでしょう。伊勢の斎宮の霊威を主張する意味もあったのでしょう。ただ、ヤマトタケルの九州征伐に際して実際に伊勢神宮の後押しがあったという意味かもしれません。まぁ、そういう意味だと考えたほうが自然ですね。
敷物について
古事記ではなぜ「敷物」について描かなかったか? 山幸彦が海神の宮殿に行ったときに、良い敷物に自然と山幸彦が座ったのを見て、海神が「こいつは高貴なやつだ」と判断したクダリがあるんですね。古代には「敷物=高貴」という決まりがあったんじゃないかと。それで川上梟師の宴会に「敷物」があったことをあまり描きたくなかったのではないかと。
ではどうして日本書紀では「敷物」について描いたか? 私はどうも日本書紀は「鎮魂」という大きな目的があったのではないか?と思っています。鎮魂のためにはできるだけ「嘘」は書かないようにした。その結果ではないか?と。神話部分に「一書」という形で異伝を残したのはそういう意図があったのではないかと思うっています。
参考:クマソタケル兄弟を征伐
相違点がいくつかあります。古事記ではヤマトタケルは叔母の倭姫からもらった女性の衣装を着て「女装」するのですが、日本書紀では叔母の倭姫のサポートはありません。
また古事記では「懐より剣を出し」とあるのに対して、日本書紀では「裀(=敷物)」に隠していて、それを抜き出したとあります。
あとは、古事記のクマソタケルが二人兄弟であるのに対して、日本書紀の川上梟師には「二人」という記述がないので、「一人」ということです。
日本の聖数字
日本の聖なる数字は「2」です。日本の神様は基本的に二人で一組になっています。この性質が様々な物語でも反映されています。ところがここでは「一人」ということは、日本書紀の神話の方が「史実」に近いんじゃないか?と個人的には思っています。
倭姫のサポート
だから古事記で描かれた倭姫の女装サポートは後付けでしょう。伊勢の斎宮の霊威を主張する意味もあったのでしょう。ただ、ヤマトタケルの九州征伐に際して実際に伊勢神宮の後押しがあったという意味かもしれません。まぁ、そういう意味だと考えたほうが自然ですね。
敷物について
古事記ではなぜ「敷物」について描かなかったか? 山幸彦が海神の宮殿に行ったときに、良い敷物に自然と山幸彦が座ったのを見て、海神が「こいつは高貴なやつだ」と判断したクダリがあるんですね。古代には「敷物=高貴」という決まりがあったんじゃないかと。それで川上梟師の宴会に「敷物」があったことをあまり描きたくなかったのではないかと。
ではどうして日本書紀では「敷物」について描いたか? 私はどうも日本書紀は「鎮魂」という大きな目的があったのではないか?と思っています。鎮魂のためにはできるだけ「嘘」は書かないようにした。その結果ではないか?と。神話部分に「一書」という形で異伝を残したのはそういう意図があったのではないかと思うっています。
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- Page24 景行天皇(二十四)美濃国の弟彦公
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- Page26 景行天皇(二十六)日本童男から日本武皇子へ
- Page27 景行天皇(二十七)西国遠征の報告
- Page28 景行天皇(二十八)大碓皇子を美濃国に封じる
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