天武天皇(九十二)河辺臣子首を金忠平をもてなすために派遣

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天武天皇(九十二)河辺臣子首を金忠平をもてなすために派遣

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原文

十一月丙申朔丁酉、地震。十二月乙丑朔甲戌、小錦下河邊臣子首遣筑紫、饗新羅客忠平。癸巳、田中臣鍛師・柿本臣猨・田部連国忍・高向臣麻呂・粟田臣眞人・物部連麻呂・中臣連大嶋・曾禰連韓犬・書直智德、幷壹拾人授小錦下位。是日、舍人造糠蟲・書直智德、賜姓曰連。

現代語訳

(即位10年)11月2日。地震がありました。
12月10日。小錦下の河辺臣子首(カワヘノオミコビト)を筑紫で新羅の客人の忠平(チュウビョウ)を宴会をしてもてなすために、派遣しました。
12月29日。田中臣鍛師(タナカノオミカヌチ)・柿本臣猨(カキノモトノオミサル)・田部連国忍(タベノムラジクニオシ)・高向臣麻呂(タカムクノオミマロ)・粟田臣真人(アワタノオミマヒト)・物部連麻呂(モノノベノムラジマロ)・中臣連大嶋(ナカトミノムラジオオシマ)・曾禰連韓犬(ソネノムラジカライヌ)・書直智徳(フミノアタイチトコ)、合わせて10人に、小錦下位を授けました。この日に舍人造糠蟲(トネリノミヤツコヌカムシ)・書直智徳(フミノアタイチトク)に姓を与えて、連(ムラジ)と言うようになりました。
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解説

実際に宴会があるのは翌年1月
ここでは河辺臣子首を派遣した記事で、実際に宴会があったのは翌年1月9日。となると、大和朝廷はかなり細かく情報を把握していたことになります。
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