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天武天皇(九十一)金忠平と金壱世の献上品・広瀬野の検校と新羅王の死
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冬十月丙寅朔、曰蝕之。癸未、地震。乙酉、新羅遣沙㖨一吉飡金忠平・大奈末金壹世貢調、金銀銅鐵・錦絹鹿皮・細布之類各有數、別獻天皇・皇后・太子、金銀霞錦・幡皮之類、各有數。庚寅、詔曰、大山位以下小建以上人等各述意見。是月、天皇、將蒐於廣瀬野而行宮構訖、裝束既備、然車駕遂不幸矣。唯親王以下及群、皆居于輕市而檢校裝束鞍馬、小錦以上大夫皆列坐於樹下、大山位以下者皆親乘之、共隨大路自南行北。新羅使者至而告曰、国王薨。
現代語訳
(即位10年)冬10月1日に日蝕がありました。
10月18日。地震がありました。
10月20日。新羅は沙㖨(サトク=新羅の地域のひとつ)の一吉飡(イツキツサン=新羅の官位の名前)の金忠平(キンチュウビョウ)・大奈末(ダイナマ)の金壱世(キンイツセ)を派遣して、調(ミツキ)を献上しました。金・銀・銅・鉄(ネリカネ)・錦・絹(カトリ)・鹿皮・細布(ホソヌノ)の類が、それぞれ数がありました。それとは別に天皇・皇后・太子に献上しました。金・銀・霞錦(カスミニシキ=?)・幡(ハタ)・皮(カワ)の類、それぞれに数がありました。
10月25日。詔(ミコトノリ)して言いました。
「大山位(ダイセンノクライ)から下、小建(ショウコン)から上の人たちは、それぞれの意見を述べなさい」
この月に天皇は広瀬野(ヒロセノ=奈良県北葛城郡河合村)で調べに見に行こうとして、行宮(カリミヤ=異動先の仮の宮)を構築し終えて、装束(ヨソイ)も準備しました。しかし、車駕(スメラミコト=天皇が乗る車)はついに行きませんでした。ただし親王から下の群卿(マヘツキミタチ=臣下たち)は、みんな、軽市(カルノイチ=奈良県橿原市大軽付近の市)に居て、装束(ヨソイ)をして、鞍馬(カザリマ)を検校しました。小錦から上の大夫(マヘツキミタチ=臣下たち)は、みんな、木の下に列になって、座っていました。大山位から下は、皆、自ら馬に乗りました。一緒に大路に沿って、南から北に行きました。新羅の使者が参りでて告げて言いました。
「国王が亡くなりました」
10月18日。地震がありました。
10月20日。新羅は沙㖨(サトク=新羅の地域のひとつ)の一吉飡(イツキツサン=新羅の官位の名前)の金忠平(キンチュウビョウ)・大奈末(ダイナマ)の金壱世(キンイツセ)を派遣して、調(ミツキ)を献上しました。金・銀・銅・鉄(ネリカネ)・錦・絹(カトリ)・鹿皮・細布(ホソヌノ)の類が、それぞれ数がありました。それとは別に天皇・皇后・太子に献上しました。金・銀・霞錦(カスミニシキ=?)・幡(ハタ)・皮(カワ)の類、それぞれに数がありました。
10月25日。詔(ミコトノリ)して言いました。
「大山位(ダイセンノクライ)から下、小建(ショウコン)から上の人たちは、それぞれの意見を述べなさい」
この月に天皇は広瀬野(ヒロセノ=奈良県北葛城郡河合村)で調べに見に行こうとして、行宮(カリミヤ=異動先の仮の宮)を構築し終えて、装束(ヨソイ)も準備しました。しかし、車駕(スメラミコト=天皇が乗る車)はついに行きませんでした。ただし親王から下の群卿(マヘツキミタチ=臣下たち)は、みんな、軽市(カルノイチ=奈良県橿原市大軽付近の市)に居て、装束(ヨソイ)をして、鞍馬(カザリマ)を検校しました。小錦から上の大夫(マヘツキミタチ=臣下たち)は、みんな、木の下に列になって、座っていました。大山位から下は、皆、自ら馬に乗りました。一緒に大路に沿って、南から北に行きました。新羅の使者が参りでて告げて言いました。
「国王が亡くなりました」
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解説
新羅の国王は死んだか?
新羅の国王である文武王は実際にこの年(681年)の7月1日になくなっています。でも、この文章ってそういうことなんでしょうか。
天武天皇が広瀬野に行くことにした。臣下たちは、広瀬野の近くの軽市に集まっていたのだけど、天皇が全然来ない。そこで仕方なく、みんな集まって出発した。当然、天皇はいない。
その天皇がいない大集団が南から北に移動しているのを見て、新羅の使者が「え? 天皇が亡くなったの?」って言ったんじゃないかと。その行列を「葬列」だと思ったんじゃないかな?と。そういうおもしろ話なんじゃないかなと。
ただ天皇を国王と書くかな?とも思うし、実際に、この年に新羅の王は亡くなっているのですよね。うーん、まぁ、なんとも。
私としては、天皇のいない行列に、新羅の使者がやってきて、「国王が亡くなった」と言った。それは新羅の国王が亡くなったという意味だったのだけど、大和朝廷の臣下たちは、新羅が勘違いしたと思って、
「いや、天皇は亡くなってないよ。
検校に行く予定だったのに、天皇が来なかったからさ…」
と説明したら、いや、新羅の王が実際死んでいたという「記事」だと思うのです。というのも、この「天皇が広瀬野に行こうとしたけど」という記事は、書かなくてもいいと思うのです。だけど、当時としては有名な事件で、この話は書かないわけには行かなかった。そういう事情があったんじゃないかと。
新羅の国王である文武王は実際にこの年(681年)の7月1日になくなっています。でも、この文章ってそういうことなんでしょうか。
天武天皇が広瀬野に行くことにした。臣下たちは、広瀬野の近くの軽市に集まっていたのだけど、天皇が全然来ない。そこで仕方なく、みんな集まって出発した。当然、天皇はいない。
その天皇がいない大集団が南から北に移動しているのを見て、新羅の使者が「え? 天皇が亡くなったの?」って言ったんじゃないかと。その行列を「葬列」だと思ったんじゃないかな?と。そういうおもしろ話なんじゃないかなと。
ただ天皇を国王と書くかな?とも思うし、実際に、この年に新羅の王は亡くなっているのですよね。うーん、まぁ、なんとも。
私としては、天皇のいない行列に、新羅の使者がやってきて、「国王が亡くなった」と言った。それは新羅の国王が亡くなったという意味だったのだけど、大和朝廷の臣下たちは、新羅が勘違いしたと思って、
「いや、天皇は亡くなってないよ。
検校に行く予定だったのに、天皇が来なかったからさ…」
と説明したら、いや、新羅の王が実際死んでいたという「記事」だと思うのです。というのも、この「天皇が広瀬野に行こうとしたけど」という記事は、書かなくてもいいと思うのです。だけど、当時としては有名な事件で、この話は書かないわけには行かなかった。そういう事情があったんじゃないかと。
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