久礼叱及伐干と奴氐大舍の怒り・穴門館の河内馬飼首押勝

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欽明天皇(七十六)久礼叱及伐干と奴氐大舍の怒り・穴門館の河内馬飼首押勝

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原文

廿二年、新羅遣久禮叱及伐干、貢調賦。司賓饗遇禮數、減常。及伐干、忿恨而罷。是歲、復遣奴氐大舍、獻前調賦。於難波大郡、次序諸蕃、掌客額田部連・葛城直等、使列于百濟之下而引導。大舍怒還、不入館舍、乘船歸至穴門。於是、修治穴門館、大舍問曰「爲誰客造。」工匠河內馬飼首押勝、欺紿曰「遣問西方無禮使者之所停宿處也。」大舍還国、告其所言。故、新羅築城於阿羅波斯山、以備日本。

現代語訳

即位22年。新羅は久礼叱及伐干(クレシキュウバツカン)を派遣して調賦(ミツキ=税)を献上しました。司賓(マラウトノツカサ=客をもてなす役人)が歓迎の宴会をして迎えた礼の数がいつもよりも少なかった。及伐干(キュウバツカン)は怒り、恨んで帰りました。

この年、また奴氐大舍(ヌテダサ)を派遣して、前回の調賦(ミツキモノ)を献上しました。難波の大郡(オオコオリ=難波の役所の名前ではないか)にもろもろの蕃(マラウト=客=他国の客人)を次々に順番に座るときに、掌客(オサムルツカサ=外交接待役)の額田部連(ヌカタベノムラジ)・葛城直(カツラギノアタイ)たちが、奴氐大舍(ヌテダサ)を百済の下の列に引率して導きました。すると大舍(ダサ)は怒って帰りました。館舍(ムロツミ)に入らず、船に乗って穴門(アナト=現在の山口県長門)に帰りました。それで日本は穴門館(アナトノムロツミ)を修繕しました。大舍(ダサ)は問うて言いました。
「どこの客のために作っているのか?」
工匠(タクミ=技術者)の河内馬飼首押勝(コウチノウマカイノオビトオシカツ)は嘘をついて言いました。
「西の方の礼の無いことを問うて責めるために、派遣した使者が留まり宿る場所だ!」
大舍(ダサ)は国に帰ってこのことを言った経緯を報告しました。それで新羅は城を阿羅波斯山(アラハシムレ)に築いて日本に備えました。
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解説

即位22年に新羅からやってきた使者は「久礼叱及伐干」この「及伐干」が役人の冠位で17階の9番目だから前のページの「欽明天皇(七十五)弥至己知奈末の進言」で派遣された「奈末」が11番目だから二回級あげての派遣です。

ところが二回級あげたのに、いつもより歓待されなかった。これで新羅の使者は怒った。
文化・風習の違いではないか?
儒教では上下関係を重んじます。だから上の階級が来たのに歓待されないとなると、バカにしている、礼を失しているとなります。しかし、日本は儒教国ではありません。儒教の文化は入っていますが、日本はあらゆる文化がモザイク状に絡み合っていて、「儒教国」「仏教国」という括りでは説明できない国です。だから新羅の使者が来たときに、階級が上だからと歓待しなかった。

ではなぜ歓待しなかったのか。

私個人の見解ですが……日本は儒教国ではなかった。一部に儒教的な感覚を取り入れてはいても全くの儒教国ではなかった。だから上下関係を重んじるという感覚は薄く、むしろ別のロジックが働いていた。

日本は農業立国です。米を税金代わりに徴収するくらいに農業が国の根幹に関わっています。米は一粒から翌年には何十倍の米を実らせるもので、日本人はこの「種子」というものを大切にします。種子というか「幼さ」にこそ霊威があり、尊いという感覚があります。日本人がロリコンとされるのは、そういう古代国家の文化が根でしょう。

だから古代の日本人は、地位の低い若いものを歓待し、地位の高い大人は歓待しなかった。地位の高い大人を歓待するのはむしろ失礼という感覚すらあったんじゃないかと思うのですね。歓待するってことは、「未熟」であると評価していることになるからです。

が、儒教では真逆です。上のものほど歓待するのが普通。前のページで地位の低いものが日本に来て、えらく歓待されたのを見て、これがもっと上の家柄の人なら、すごい歓待されるに違いないと考えた。ところが逆。まぁ、誤解なんですが怒るのも無理はない。
席順について
これって現在でも問題になりますよね。上座と下座があって、上座ほど偉い。そういうのってどうでもいいように見えますが、この上下関係というのが儒教では大問題です。日本は百済より下に新羅の使者を置いた。それでまた新羅の使者が怒った。

日本にはそういう上下関係という感覚が無かったのではないかと思うのです。

ところで、そもそも「大和」と書いて「ヤマト」と読みますが、「大和」はどうやっても「ヤマト」とは読めないのですよね。ヤマトは当時の日本語ですから、昔からあった言葉です。ここにどうして「大きい和」という漢字を当てたのか。これは間違いなく「和」が日本人を表す言葉だったからでしょう。「和」が日本人の性質を表し、同時に「和」は「集落」そのものを表していた。そう考えると「和」はそもそもは「輪」だったのだと考えたほうが自然です。井沢元彦もそう言ってます。

集落が輪の形に並んでいたとも言われますが、わたしは「輪」というのは日本の高天原の神話に通じる「同質」という集落のルールを表していると思います。

輪というのは始まりも終わりもありません。つまり、輪(和)に属するということは上下関係が無いのです。これは高天原の神々が天安川で集まって会議をしたのと同じで、集落に属する人々の間に上下関係が無かったってことです。だから「輪(円という意味での)」であり「和(なごむ・和える・融和するという意味での)」だった。

この「上下関係なんて無い」という感覚の日本人にしてみれば、百済と新羅の席の順番なんてどうでもよかった。みんな「和」に属する仲間なんだから上も下も無い。そう考える。ところが儒教の新羅の使者にはこれが理解できない。ただただ無礼にしか映らない。

この物語の本質は「文化摩擦」なんですよ。
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