川辺臣の投降?・手彦の逃亡

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欽明天皇(八十二)川辺臣の投降?・手彦の逃亡

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原文

士卒皆委心而服事焉。河邊臣瓊缶、獨進轉鬪、所向皆拔。新羅、更舉白旗投兵隆首。河邊臣瓊缶、元不曉兵、對舉白旗、空爾獨進。新羅鬪將曰「將軍河邊臣、今欲降矣。」乃進軍逆戰、盡鋭遄攻破之、前鋒所破甚衆。倭国造手彦、自知難救、棄軍遁逃。新羅鬪將、手持鉤戟、追至城洫、運戟擊之。手彦、因騎駿馬、超渡城洫、僅以身兔。鬪將臨城洫而歎曰「久須尼自利。」此新羅語、未詳也。

現代語訳

士卒(イクサノヒトドモ=兵士たち)は皆、紀男麻呂宿禰に心を委ねて服従し仕えました。川辺臣瓊缶(カワヘノオオミニヘ)は独りで進み出でて、戦いました。向かった土地を皆、抜き取りました。新羅は白旗を上げて、兵(ツワモノ=兵器)を投げ捨てて、投降しました。川辺臣瓊缶はそもそも兵(ツワモノノミチ=兵法)を知らないので、対して白旗を挙げて、ただ独り進みました。新羅の闘将は言いました。
「将軍の川辺臣は今、投降した」
すぐに軍を進めて迎えて戦いました。鋭(トキサキ=知恵)を尽くして、川辺臣を攻め破りました。先鋒が破ったところが、はなはだ多かった。倭国造手彦(ヤマトノクニノミヤツコテヒコ)は救い難いと分かって、軍を捨てて逃れました。新羅の闘将は手に鉤戟(ホコ=矛)をもって、追いかけて、城の堀の溝に到着して、戟(ホコ=矛)を振り回して撃ちました。手彦は駿馬(スグレタルウマ)に騎乗して、城の堀を超えて渡って、どうにかこうにか逃れました。闘将は城の堀の溝を見て嘆いて言いました。
「久須尼自利(クスニジリ)」
これは新羅の言葉でよく分かりません。
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解説

川辺臣の奇行?
単独で新羅に向かい、そのまま勝っていく川辺臣。新羅の軍隊は、そんな川辺臣に対して「白旗」を挙げました。これは「戦意が無い」ことを示すものです。ところが川辺臣はそんなことは知らず、敵が白い旗を掲げるなら此方も!と川辺臣も白い旗を挙げて、新羅軍に突っ込んでいきました。

まぁ、結局、川辺臣は敗北するのですが、このお話があるということは、日本と新羅の戦争のルールに、文化の違いがあったということになります。
白旗について
日本書紀を読み返すと「白旗」というのは無いのですが景行天皇の段と神功皇后の段に「素旆・素幡(どちらもシロハタ)」という言葉があります。「素」というのは「何もしていない」という意味があって、「素幡」が「白い布」なのかと言えば白い布ということになります。

となると川辺臣が白旗の意味を知らないというのはおかしい。以前から白旗が「投降」を意味するものだというのは記述にあり、川辺臣は知っていないとおかしいのです。

でもですね。
以下の参考ページを見ればわかると思うのですが、「素旆・素幡」という単語が登場するのは舞台が「九州」なんですよね。他では見られない。ということは九州や新羅では常識だったが、他の地域では常識ではなかった。川辺臣はおそらく、朝鮮半島でも九州でも無い地域の出身で、この常識を知らなかったのでしょう。
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