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欽明天皇(四十一)高麗の大乱で2000人が死ぬ・狛王は8歳
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是歲、高麗大亂、凡鬪死者二千餘。百濟本記云「高麗、以正月丙午立中夫人子爲王、年八歲。狛王有三夫人、正夫人無子、中夫人生世子其舅氏麁群也、小夫人生子其舅氏細群也。及狛王疾篤、細群・麁群各欲立其夫人之子。故、細群死者二千餘人也。」
現代語訳
この年(即位7年)。高麗は大いに乱れました。戦って死んだ者は2000人以上。
百済本記によると、高麗は1月丙午(ヒノエウマ)をもって中夫人(クノオリクク)の子を立てて王としました。その王の年齢は8歳。狛王(コクオリコケ)に三人の夫人(オリクク)がありました。正夫人(マカリオリクク)には子がいませんでした。中夫人(クノオリクク)が世子(マカリヨモ=世継ぎの子)を生みました。その舅氏(シウト)は麁群(ソグン)です。小夫人(シソオリクク)も子を生みました。その舅氏は細群(サイグン)です。狛王が病気になると、細群と麁群はそれぞれの夫人の子を立てようとしました。それで細群の死んだものは2000人以上だったといいます。
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解説
この1年前(即位6年)にほぼ同じ記述があります。
今回の記述の方がより詳細。ただ即位6年の記述は12月に「大乱」があったとあり、今回の記述では1月に8歳の新王が即位したとあるのだから、「大乱」が12月から翌年の1月に掛けて起きたと考えれば、全く矛盾は無い。
今回の記述の方がより詳細。ただ即位6年の記述は12月に「大乱」があったとあり、今回の記述では1月に8歳の新王が即位したとあるのだから、「大乱」が12月から翌年の1月に掛けて起きたと考えれば、全く矛盾は無い。
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