德率宣文が帰って以降・得爾辛に城を

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欽明天皇(四十五)德率宣文が帰って以降・得爾辛に城を

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原文

六月辛酉朔壬戌、遣使詔于百濟曰「德率宣文取歸以後、當復何如、消憩何如。朕聞、汝国爲狛賊所害。宜共任那、策勵同謀、如前防距。」閏七月庚申朔辛未、百濟使人掠葉禮等罷歸。冬十月、遣三百七十人於百濟、助築城於得爾辛

現代語訳

(即位9年)6月2日。使者を派遣して百済に詔(ミコトノリ)して言いました。
「德率宣文(トクチセンモン)は帰って以降は果たして如何だろうか? 消息(アルカタチ=現況)はどうだろうか? 朕(ワレ)は聞く、お前の国は狛(コマ=高麗のこと)の賊(アタ)のために被害を受けている。任那とともに策を練り、励んで、作戦を話し合って、前のように防衛しなさい」

閏7月12日。百済の使者の掠葉礼(ケイセフライ)たちが帰国しました。

冬10月に370人を百済に派遣して得爾辛(トクニシ=地名だが未詳)に城を築くのを助けました。
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解説

やっと百済に370人を派遣し、築城を手伝わせました。
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