下部東城子言と德率汶休麻那を代える

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欽明天皇(四十二)下部東城子言と德率汶休麻那を代える

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原文

八年夏四月、百濟遣前部德率眞慕宣文・奈率奇麻等、乞救軍。仍貢下部東城子言、代德率汶休麻那。

現代語訳

即位8年夏4月。百済は前部德率眞慕宣文(ゼンホウトクソチシンモセンモン)・奈率奇麻(ナソチガマ)たちを派遣して救援軍を乞い願いました。それで下部東城子言(カホウトウジョウシゴン)を差し出して、德率汶休麻那(トクソチモンクマナ)に代えました。

解説

下部東城子言
下部は百済の地域の名前。「東城子」は百済の複姓。複姓ってのは、苗字とは別に役職や家柄を表すもので、日本でいうと「屋号」みたいなもの。よって名前は「言」になる。
この人物を大和朝廷に差し出して「德率汶休麻那」を帰したということは、この二人は「人質」と考えるのが一般的。

「人質」と考えるならば、この二人は百済の王族の一員のはず。しかし、彼らが「王族」という証拠は無い。

個人的には大和朝廷は「貿易国家」であり、俗に言う「国家」ではなく、貿易経済圏をまとめる組織ではないかと考えています。その中で、参加料として「貢ぎ物」と、「人材」の提出を求めていたのではないかと思います。

そう考えるとこれらの人物が王族である必要は全然なく、百済は国家の危機に「優秀な人材」を呼び戻しただけ、なのではないかと思っています。
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