馬津城の役・可畏き天皇

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欽明天皇(四十三)馬津城の役・可畏き天皇

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原文

九年春正月癸巳朔乙未、百濟使人前部德率眞慕宣文等、請罷。因詔曰「所乞救軍、必當遣救。宜速報王。」

夏四月壬戌朔甲子、百濟遣中部杆率掠葉禮等、奏曰「德率宣文等、奉勅至臣蕃曰、所乞救兵應時遣送。祗承恩詔、喜慶無限。然馬津城之役正月辛丑、高麗率衆圍馬津城、虜謂之曰、由安羅国與日本府招來勸罰。以事准況、寔當相似。然三

現代語訳

即位9年。春1月3日。百済の使者の前部德率眞慕宣文(ゼンホウトクソチシンモセンモン)たちが帰りたいと請願しました。それで詔(ミコトノリ)して言いました。
「乞い願う、救援軍のことだが、必ず救援を派遣する。速やかに百済王に報告しなさい」

夏4月3日。百済は中部杆率掠葉礼(チウホウカンソチケイセフライ)を派遣して申し上げました。
「德率宣文(トクソチセンモン)は詔(ミコトノリ)を承って、臣(ヤツカレ=ここでは宣文たちのこと)が蕃(クニ)に到着して言いました。
『乞い願った救援の兵は、その時になったら派遣すると言われました』
慎み、恩詔(メグミノミコトノリ)を受け賜り、とても喜びました。しかし、馬津城(マシンノサシ)の役(エダチ=戦争)のときに
1月の辛丑(カノトウシノヒ)に高麗は兵士を率いて馬津城を囲みました。

捕虜が言いました。
『安羅国と日本府とに招かれて来て、勧められて征伐したのが原因だ(城を囲んだのは安羅と日本府に勧められたから)』
状況を見て考えれば、あり得る話です。三回その言葉を審議しようと呼び寄せようと(安羅と日本府に)使者を派遣したのですが、どちらも来ませんでした。ひどく心配しています。伏して願わくば、可畏(カシコ)き天皇(スメラミコト)…
西の蕃(トナリノクニ=朝鮮半島の国のこと)では日本の天皇を「可畏(カシコ)き天皇(スメラミコト)」と奉じています。

まず、勘当(カムガエ=罪科を調べる=ここでは安羅と日本府の罪を調べること)してください。しばらくは乞い願う救援の兵を留めて、わたしめが報告する使者を派遣するのをお待ち下さい」
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解説

救援を約束する欽明天皇。しかし、百済では馬津城が高麗に襲われていました。しかも捕虜が言うには、百済の城を襲うようにそそのかしたのは「安羅国と日本府」だというのです。百済は一体、何を信じたらいいのやら。
●百済と高麗は接している。

しかし、安羅・日本府はどうして高麗をたきつけて百済をやっつけようとするのでしょうか。任那の再興がうまくいかず、このままでは百済は日本とのつながりを失ってしまう。それだけでも大損、いや、国家存亡の危機です。日本にとって百済は重要な国のはず。それを日本府が邪魔するのは妙です。

わたしは大和朝廷が朝鮮半島に興味を失ったのではないかと思っています。貿易ルートは朝鮮半島だけでなく、隼人→沖縄ルートもあります。また、朝鮮半島の南部の一部では米がつくれますが、ほとんどの地域では米が作れません。これは米を国家の基盤としている大和朝廷にとって致命的です。そして、「儒教」という日本の「和」の価値観とは相容れない文化摩擦。大和朝廷が朝鮮半島に興味を失っても致し方ないってものです。

また、「切り離し」があったのではないか?とも思います。朝鮮半島から伝わる文化や物品自体は魅力なのですが、それは国家が兵や財を投入しようとしまいと、民間の貿易でも十分伝播します。無理に関わりを持つ必要を疑問視する人が増えたのではないか?と。
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