久礼山付近の実情・天朝を欺く

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欽明天皇(二十七)久礼山付近の実情・天朝を欺く

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原文

新羅春取㖨淳、仍擯出我久禮山戍而遂有之。近安羅處、安羅耕種。近久禮山處、斯羅耕種。各自耕之、不相侵奪。而移那斯・麻都、過耕他界、六月逃去。於印支彌後來、許勢臣時、(百濟本記云、我留印支彌之後、至既洒臣時。皆未詳。)新羅無復侵逼他境、安羅不言爲新羅逼不得耕種。臣嘗聞、新羅毎春秋、多聚兵甲、欲襲安羅與荷山。或聞、當襲加羅。頃得書信。便遣將士擁守任那、無懈息也。頻發鋭兵、應時往救。是以、任那隨序耕種、新羅不敢侵逼。而奏百濟路迥不能救急・由的臣等往來新羅方得耕種、是上欺天朝轉成姧佞也。曉然若是尚欺天朝、自餘虛妄必多有之。的臣等猶住安羅、任那之国恐難建立。宜早退却。
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現代語訳

新羅は春に卓淳(トクジュン=地名)を取り、それで久礼山(クレムレ)の守備兵を追い出して、所有しました。安羅の近いところは安羅が耕作し種を蒔きます。久礼山に近いところは新羅が耕作し種を蒔きます。それぞれが自ら耕作してお互いに侵略や略奪はしませんでした。しかし、移那斯(エナシ)・麻都(マツ)が他者の境界を過ぎて耕作して6月に逃げ去りました。その後で印支弥(イキミ=人名)が来ました。許勢臣(コセノオミ)の時期に…
百済本記によると『わたしが印支弥を留めた後に、到着した既洒臣(コセノオミ)の時期に』にとあります。すべてはハッキリとは分かりません。

新羅はまた、他者の国境を侵略し攻めることはありませんでした。安羅は新羅に責められて耕作したり種を蒔くことができ無いとは言いませんでした。わたしめが昔、聞いたところ、新羅は春秋毎(トシゴト)に多くの兵甲(ツワモノ=兵士・兵器)を集めて、安羅と荷山(ノムレ)を襲おうと思ったと、あるいは、そういう噂を聞いて、加羅を襲うべしと、この頃、書信(フミツカイ)を得ました。すぐに将士(イクサ=兵士)を派遣して、任那を擁護し守るよう、休み怠ることはありませんでした。しきりに説得し、軍隊を興して、その時期に行って救いました。それで任那は、季節に従って耕作し種を蒔くようになりました。新羅は侵略しなくなりました。よって『百済は道が遠くて、急な事態に救うことは出来ない。的臣(イクハノオミ)たちが新羅に往来するようになって耕し種を蒔くことができるようになった』とおっしゃるのは、天朝(ミカド=大和朝廷と天皇)を欺いた結果であり、奸計・嘘が成したことだ。このように明らかな事実であっても、天朝を欺いている。嘘・妄言は間違いなく多い。的臣たちがまだ安羅に居るのならば、任那国はおそらく再建することは難しい。早く、退却させてください。
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解説

長い。このページは鉤括弧でくくられていませんが、前のページからの続きで「百済の発言」内容です。

前のページで、欽明天皇が「任那の前任者のときはダメだったけど、今の的臣とかが行ってからは、耕作・種まきもちゃんとやれるようになったって聞いたよ」
という発言に対して、「いや、違う。耕作・種まきができるようになったのは、百済が任那を救援したからだ!」というお話。
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