孝徳天皇(二十七)紀麻利耆拕臣の罪

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孝徳天皇(二十七)紀麻利耆拕臣の罪

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原文

其紀麻利耆拕臣所犯者、使人於朝倉君・井上君二人之所、而爲牽來其馬視之。復使朝倉君作刀、復得朝倉君之弓布、復以国造所送兵代之物不明還主、妄傳国造。復於所任之国、被他偸刀。復於倭国、被他偸刀。是、其紀臣・其介三輪君大口・河邊臣百依等過也。其以下官人、河邊臣磯泊・丹比深目・百舌鳥長兄・葛城福草・難波癬龜倶毗柯梅・犬養五十君・伊岐史麻呂・丹比大眼、凡是八人等咸有過也。其阿曇連闕名所犯者、和德史有所患時、言於国造使送官物、復取湯部之馬。其介膳部臣百依所犯者、草代之物收置於家、復取国造之馬而換他馬來。河邊臣磐管・湯麻呂、兄弟二人、亦有過也。大市連闕名所犯者、違於前詔。前詔曰、国司等、莫於任所自斷民之所訴。輙違斯詔、自判菟礪人之所訴及中臣德之奴事。中臣德、亦是同罪也。涯田臣闕名之過者、在於倭国被偸官刀、是不謹也。小緑臣・丹波臣、是拙而無犯並闕名。忌部木菓・中臣連正月、二人亦有過也。羽田臣・田口臣、二人並無過也闕名。平群臣闕名所犯者、三国人所訴有而未問。
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現代語訳

紀麻利耆拕臣(キノマリキタノオミ)が犯した罪は、人を朝倉君・井上君の二人のところに派遣して、馬を引っ張って来て、見た。また朝倉君に刀(タチ)を作らせた。また朝倉君の弓や布を得た。また国造の献上した兵代(ツワモノシロ=武器)の物を、持ち主に返還せずに、国造に渡した。また出かけた先の国で、他人に刀を盗まれた。また倭国で他人に刀を盗まれた。これは紀臣(キノオミ)・その介(スケ=次官=補佐)の三輪君大口(ミワノキミオオクチ)・河辺臣百依(カワヘノオミモモヨリ)などの過(トガ=罪)です。それ以下の官人(ツカサヒト=役人)の河辺臣磯泊(カワヘノオミシハツ)・丹比深目(タジヒノフカメ)・百舌鳥長兄(モズノナガエ)・葛城福草(カヅラキノサキクサ)・難波癬亀(ナニワノクイカメ)…
倶毗柯梅(クイカメ)

・犬養五十君(イヌカイノイキミ)・伊岐史麻呂(イキノフビトマロ)・丹比大眼(タジヒノオオメ)、その全員、この8人は過(トガ)があります。
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性格・能力

東国の国司は兵器を集めて、数えてから、主に返さないといけません。これって兵器の数を把握するってことでしょう。蝦夷に対抗する意味もありますが、謀反を抑える意味もあったはずです。誰がどれだけ兵器を持っているかわかっていれば中央は対策が取りやすいですからね。だから、勝手に刀を作ってはいけなかった。また朝倉君や井上君は地方の豪族です。彼らから弓や馬を取り上げるということは、この紀麻利耆拕臣には謀反の意思があった、少なくとも中央から見れば、そう見えたってことです。

まぁ、出かけた先や倭国で刀を盗まれているので、もしかすると紀麻利耆拕臣は単に頭が緩いだけだったのかもしれないですが。

山背大兄王(=聖徳太子の息子)が自殺する直前に部下に「東国に逃げて体制を立て直して蘇我を倒そう」と提案されています。東国は乱れた地域だったわけです。中央が東国の国司に厳しく当たるのは、今後、政治体制をひっくり返されないようにする意図があったわけです。
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