孝徳天皇(四十六)有馬温湯へ行幸・武庫行宮の帰ると皇太子の宮に火災

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孝徳天皇(四十六)有馬温湯へ行幸・武庫行宮の帰ると皇太子の宮に火災

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原文

冬十月甲寅朔甲子、天皇幸有間温湯、左右大臣群卿大夫從焉。十二月晦、天皇還自温湯而停武庫行宮(武庫、地名也)。是日、災皇太子宮。時人、大驚怪。

現代語訳

(即位3年)冬10月11日。天皇は有馬温湯(アリマノユ=有馬温泉=現在の神戸市兵庫区)に行きました。左右大臣・群卿大夫(マヘツキミタチ=臣下たち)は従ってついて行きました。

12月の大晦日に天皇は温湯から帰ってきて、武庫行宮(ムコノカリノミヤ=難波の対岸・武庫水門(応神天皇)・務古水門(神功皇后)などの記述がある)に留まりました。
武庫は土地の名前です。

この日に、皇太子(=中大兄皇子)の宮に火災がありました。その時代の人はとても驚き怪しみました。
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解説

孝徳天皇は有馬温泉に行きました。有馬温泉ですから兵庫県です。ここに行って、帰って来たその日に皇太子の宮に火災があった。
時代が時代ですから火災くらいはあるでしょう。冬は乾燥しますしね。だから放火の可能性もありますが、致し方のないこともあるわけです。でも、周囲の捉え方は違う。それを放火ととるか、自然発生ととるか、はたまた、「何かの祟り」「何かの凶兆」ととるかは、事情を知る人の自由です。

中大兄皇子は当然ながら、乙巳の変で蘇我蝦夷・蘇我入鹿を殺しています。蘇我が不遜な逆臣であったとしても、祟りはあります。日本人の感覚はそういうものです。それに蘇我氏が「逆臣」というのはあくまで、後に残された資料からの推察に過ぎません。

中大兄皇子はもしかして単なるクーデターを起こした人物で、当時の社会の基礎を作り上げたのは「蘇我」。その蘇我を評価するのが本来の世間の声だった、のかもしれません。
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