孝徳天皇(四十五)礼法・職務時間について・比羅夫の水路

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孝徳天皇(四十五)礼法・職務時間について・比羅夫の水路

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原文

是歲、壤小郡而營宮。天皇、處小郡宮而定禮法、其制曰。凡有位者、要於寅時、南門之外、左右羅列、候日初出、就庭再拜、乃侍于廳。若晩參者、不得入侍。臨到午時、聽鍾而罷。其擊鍾吏者、垂赤巾於前。其鍾臺者、起於中庭。

工人大山位倭漢直荒田井比羅夫、誤穿溝瀆控引難波、而改穿疲勞百姓。爰有上䟽切諫者。天皇詔曰、妄聽比羅夫所詐而空穿瀆、朕之過也。卽日罷役。

現代語訳

(即位3年)この年、小郡(オゴオリ=難波小郡)を壊して宮を造営しました。天皇は小郡宮(オゴオリノミヤ)にいて、礼法(イヤノノリ)を定めました。その法制で言いました。
「すべての位を持っている者は必ず寅の時(午前四時?)に南門の外に左右に羅列して、日が初めて出る時を見て、庭に行き、再拝して、すぐに庁(マツリゴトドノ=執務を行うところ)に居なさい。もし遅く参上した者は入ることはできない。午の時(昼12時)になり、鐘を聞いて帰りなさい。その鐘をつく吏(ツカサ=役人)は赤色の巾(チキリ=頭巾)を前に垂らせなさい。その鐘の台は中庭に立てなさい」

工人(タクミ=職人)の大山位(ダイセンイ=冠位十二階の位)の倭漢直荒田井比羅夫(ヤマトノアヤノアタイアラタイノヒラブ)は誤って、溝瀆(ウナテ=水路)を掘って、難波に引いてしまいました。そうして改めて、掘って百姓を疲労させてしまいました。すると䟽(フミ)を献上して切実に諌める者がありました。天皇は詔して言いました。
「みだりに比羅夫の間違ったことを聞いて、虚しくも瀆(ウナテ)を掘ったのは朕の過失です」
その日に使役をやめました。
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解説

お仕事は午前中だけってことですね。
遅刻したら仕事場に入れないって厳しい。
比羅夫のミス
比羅夫が間違って水路を掘ってしまった。無駄な仕事で民が疲労していることを密告する文があった。これは鐘匱の制度を利用したものかもしれません。となると鐘匱の制度は機能していたということに。
斉明天皇との対比ではないか?
孝徳天皇の母親である皇極天皇は、孝徳天皇の死後、斉明天皇として重祚します。つまり二度目の天皇に即位します。この孝徳天皇が死んだ原因というのが、皇極天皇(斉明天皇)と中大兄皇子が、孝徳天皇を難波宮に置き去りにして大和へと都を移してしまうという「裏切り」なんですね。よく「孝徳天皇は憤死した」と言われます。

そんな経緯で斉明天皇は即位するのですが、調子をこいたのか、国民を酷使して宮を作ったり、城壁を作ったり、水路を作ったりと評判が悪い。

孝徳天皇がこのページで「過失を認めて使役をやめた」とあるのは、斉明天皇との対比があったんじゃないかと。
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