孝徳天皇(五)百済と日本の歴史・三輪君東人と馬飼造の派遣

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孝徳天皇(五)百済と日本の歴史・三輪君東人と馬飼造の派遣

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原文

又詔於百濟使曰、明神御宇日本天皇詔旨、始我遠皇祖之世、以百濟国爲內官家、譬如三絞之綱。中間以任那国、屬賜百濟。後遣三輪栗隈君東人、觀察任那国堺。是故、百濟王隨勅、悉示其堺。而調有闕。由是、却還其調。任那所出物者、天皇之所明覽。夫自今以後、可具題国與所出調。汝佐平等、不易面來。早須明報。今重遣三輪君東人・馬飼造闕名。又勅、可送遣鬼部率意斯妻子等。

現代語訳

また、百済の使者に詔(ミコトノリ)して言いました。
「明神御宇日本天皇の詔旨を述べたように、初め、我が遠皇祖(トオツミオヤ)の世に、百済国を内官家(ウチツミヤケ=直轄地)としたことは、例えるならば、三絞の綱(ミセノツナ=三本をよってできた綱=)のようです。中頃、任那国を百済に属させ与えた。後に、三輪栗隈君東人(ミワノクルクマノキミアズマヒト)を派遣して、任那国の境を視察させました。百済の王は勅(ミコトノリ)のままに、すべての境を見せました。それで、調(ミツキ=税)には漏れがあり、間違っていました。なので、その調を返却しました。任那が献上した物は、天皇が明確にご覧になりました。今より以後、詳細に国が出した調(ミツキ)を記録しなさい。お前、佐平たちは不易面来(オモガワリセズマウコ=顔を見せない)だった。早く、すべて明確に報告しなさい。今、重ねて三輪君東人(ミワノキミアズマヒト)・馬飼造(ウマカイノミヤツコ)…
名は漏れていて分かりません。

を派遣するとおっしゃりました」
また、勅(ミコトノリ)して言いました。
「鬼部率意斯(キホウダチソチオシ)は妻子たちを送り派遣しなさい」
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解説

神功皇后の時代(4世紀)に日本は朝鮮に進出。そこで朝鮮半島を勢力下におきました。と言っても、日本は「米の国」です。米を税として徴収し、米が基準となっていたわけですから、米が作れない地域を「日本」にしてもあんまりメリットがありません。だから朝鮮半島で日本に従属したのは実質、半島の南部である任那だけでした。他の地域は貿易経済圏への参加という感じだったのだと思います。その参加料が「調」とか「朝貢」だったのでしょう。

5世紀から気温が下がり、任那も米作りが怪しくなってきた。これじゃ任那を管理していてもメリットが薄い。そこで良好な関係にあった百済にあげた。これが大伴金村や雄略天皇の時代。その後、日本は百済から「中国文化」を吸収した。でも、朝鮮半島というもの自体が日本の思想とは合わないし、半島はいっつも揉めている。徐々に嫌気がさしてくる。仏教が渡来し、だいたいの文化を吸収したあたりで、屋久島から人がやってきた。つまり、沖縄・台湾経路の貿易が始まった。これが推古天皇の時代。となると朝鮮半島の役割は薄くなる。まぁ、そうはいっても切り捨てるのももったいない。

そういう経緯があってこの時代。
朝鮮半島は相変わらず、ずっと揉めていて、生き馬の目を抜くような状態で、騙し騙されの社会です。百済は、日本に収める「調(=税)」をちょろまかしてしまい、格好がつかないので使者である「佐平緣福」は病気だからと顔も出さなかった。舐められてますよね。
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