孝徳天皇(五十四)蘇我日向の隠流・蘇我造媛と堅塩

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孝徳天皇(五十四)蘇我日向の隠流・蘇我造媛と堅塩

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原文

是月、遣使者收山田大臣資財。資財之中、於好書上題皇太子書、於重寶上題皇太子物。使者還申所收之狀、皇太子始知大臣心猶貞淨、追生悔恥、哀歎難休。卽拜日向臣於筑紫大宰帥。世人相謂之曰、是隱流乎。皇太子妃蘇我造媛、聞父大臣爲鹽所斬、傷心痛惋、惡聞鹽名。所以、近侍於造媛者、諱稱鹽名改曰堅鹽。造媛、遂因傷心而致死焉。皇太子聞造媛徂逝、愴然傷怛、哀泣極甚。於是、野中川原史滿、進而奉歌。歌曰、

耶麻鵝播爾 烏志賦拕都威底 陀虞毗預倶 陀虞陛屢伊慕乎 多例柯威爾雞武 其一
模騰渠等爾 婆那播左該騰摸 那爾騰柯母 于都倶之伊母我 磨陀左枳涅渠農 其二

皇太子、慨然頽歎、褒美曰、善矣悲矣。乃授御琴而使唱。賜絹四匹・布廿端・綿二褁。
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現代語訳

(即位5年)この月(3月)。使者を派遣して山田大臣(=蘇我倉山田石川麻呂)の資財を収奪しました。資財の良い書の上には皇太子(=中大兄皇子)の書と題しました。重要な宝の上には皇太子の物と題しました。使者は帰って収蔵し、状況を申し上げました。皇太子は、大臣の心が貞淑で正しく、清らかで潔いことを知って、後悔して恥と思い、悲しみ、嘆くのを止められませんでした。すぐに日向臣(=蘇我日向)を筑紫大宰帥(ツクシノオオミコトモチノカミ)に呼び寄せました。その時代の世間の人は語りあって言いました。
「これは隱流(シノビナガシ=暗に島流しにすること)か」
皇太子の妃の蘇我造媛(ソガノミヤツコヒメ)は父の大臣が塩(=物部二田造塩)に斬り殺されたと聞いて、傷心して悲しみ悶え泣きました。塩の名を聞くことを憎み嫌いました。そのために、造媛(ミヤツコヒメ)の近くに従事する者は塩の名を口にすることを忌み嫌って、改めて堅塩(キタシ)と言いました。造媛はついに傷心によって死にました。皇太子は造媛が死んだと聞いて、痛み傷ついて、極めてひどく悲しみ泣きました。それで野中川原史満(ノナカノカワラノフビトミツ)は進んで歌を奉りました。
山川(ヤマガワ)に 鴛鴦(オシ)二つ居て 偶(タグイ)ひよく 偶(タグ)へる妹(イモ)を 誰か率(イ)にけむ
歌の訳山川に鴛鴦(オシドリ)が二つ並んで、仲良くしている。仲の良い愛する人を、誰かが連れ去ってしまった。

本毎(モトゴト)に 花は咲けども 何(ナニ)とかも 愛(ウツク)し妹(イモ)が また咲きでこぬ
歌の訳木の一本一本ごとに花が咲いているというのに、どうして愛する人は咲いてくれないのでしょうか。

それを聞いた皇太子は嘆き、また讃美し言いました。
「よきかな…悲しきかな…」
すぐに御琴(ミコト)を授けて、歌わせました。
絹を4匹・布を20端・綿2褁を与えました。
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解説

島流しになった蘇我日向
讒言で蘇我倉山田石川麻呂を失脚させた蘇我日向も、筑紫に実質の島流しに。しかし、蘇我倉山田石川麻呂の書と宝物を自分のものにしておいて、讒言者の日向を島流しにして、皇太子(中大兄皇子)にとってあまりに都合の良い結末ではありませんか。
堅塩
皇太子の妃は蘇我倉山田石川麻呂の娘です。彼女は父親がこの事件の中で物部二田造塩に殺されたことから、「塩」という言葉を嫌い、媛の周囲では塩ではなく「堅塩(キタシ)」と呼ぶようにした、というお話。ちなみに堅塩は精製していない、まだ固まった状態の塩のこと。ただ「堅塩」は本来は「カタシオ」と読むはずなのです。

蘇我氏には以前に「堅塩媛(キタシヒメ)」という欽明天皇の妃となった人物がいます。
私が思うに、蘇我の中では精製していない塩のことを「カタシオ」ではなく「キタシ」と呼んでいたのではないかと。要は蘇我の方言とか。
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