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孝徳天皇(十九)子代離宮に
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現代語訳
この月(即位2年1月)に天皇は子代離宮(コシロノカリノミヤ=摂津国西成郡讃楊郷)に居ました。使者を派遣して郡国に詔(ミコトノリ)して兵庫(ツワモノグラ=兵器庫)を作らせました。蝦夷は参り従いました。
ある本によると、難波の難波狹屋部邑(ナニワノサヤベノムラ)の子代屯倉(コシロノミヤケ)を壊して、行宮を建てたといいます。
解説
子代は天皇の名前と業績を代々伝えていく部署のことです。個人的な解釈ですが、日本は穢れを嫌う。特に動物の死体を嫌う。結果、動物の毛からできる筆を嫌う。それで、文字は知っていても、長いこと文字を残すことができなかった。ところが穢れの概念のない仏教を取り入れることで文字を残すことができるようになった。それで子代の役割が弱くなったんじゃないかと。子代ってのはおそらく「口伝」で情報を残していたのでしょう。でも記録ができる以上、「記録したもの」さえ残せばもう十分。子代を全廃する必要はないのですが、かなり縮小すれば済む。それで子代屯倉を壊して宮を立てることができたのではないかと。
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