茨田屯倉と治水事業

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仁徳天皇(十八)茨田屯倉と治水事業

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原文

十三年秋九月、始立茨田屯倉、因定舂米部。冬十月、造和珥池。是月、築横野堤。

十四年冬十一月、爲橋於猪甘津、卽號其處曰小橋也。是歲、作大道置於京中、自南門直指之至丹比邑。又掘大溝於感玖、乃引石河水而潤上鈴鹿・下鈴鹿・上豊浦・下豊浦四處郊原、以墾之得四萬餘頃之田。故、其處百姓、寛饒之無凶年之患。

現代語訳

即位13年秋9月、初めて茨田屯倉(マムタノミヤケ=河内国交野郡三宅郷=現在の大阪府北河内郡交野町)を立てました。それで春米部(ツキシネベ=米をつく部民のこと)を定めました。
冬10月。和珥池(ワニノイケ)を作りました。この月、横野堤(ヨコノノツツミ=現在の大阪市生野区巽大地町付近)を築きました。

即位14年冬11月。
猪甘津(イカヒノツ=大阪市生野区猪飼野町)に橋を渡しました。その場所を名付けて「小橋(=大阪市生野区鶴橋町に小橋という地名がある)」と言います。
この年、大道を京(ミサト)の中に作りました。南の門からまっすぐに丹比邑(タジヒノムラ=大阪府羽曳野市丹比)へと向かっています。また、大溝(オオウナデ)を感玖(コムク=河内国石川郡紺口=現在大阪府南河内郡河南町から千早赤阪村のあたり?)に掘りました。石河の水を引いて、上鈴鹿(カミツスズカ)、下鈴鹿(シモツスズカ)、上豊浦(カミツトユラ)、下豊浦(シモツトヨラ)、四箇所の郊原(ハラ)を潤し、水を張って四万余りの頃(シロ=広さの単位)の田を得ました。その土地の百姓は豊かになって賑わって、凶作の年の憂いも無くなりました。
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解説

鈴鹿、豊浦
鈴鹿はどこの地名かははっきりしない。豊浦は大阪府東大阪市豊浦町とされます。
文章からいうと、感玖(コムク)から水を引いたような感じがしますが、感玖(コムク)とされる大阪府南河内郡河南町のあたりと、豊浦の大阪府東大阪市豊浦町は20キロか30キロほど離れていてここを水路で結んだとしたら、すごい。
これは「感玖(コムク)に掘った大溝」と、「石河の水を引いた」という記事は、別の治水事業を書いたものとしたほうがシックリ来ます。
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