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仁徳天皇(十五)難波の治水事業の詔
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十一年夏四月戊寅朔甲午、詔群臣曰「今朕視是国者、郊澤曠遠而田圃少乏、且河水横逝、以流末不駃。聊逢霖雨、海潮逆上、而巷里乘船、道路亦泥。故、群臣共視之、決横源而通海、塞逆流以全田宅。」
現代語訳
即位11年夏4月17日。
群臣(マヘツノキミタチ=臣下たち)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「いま、朕(ワレ=仁徳天皇自身のこと)がこの国を見ると、野も沢が広く遠くまで続いていて、田圃(タハタケ=田畑)は少なくて乏しい。川の水は横の堀にまで流れて、流れが速い。霖雨(ナガメ=長雨)に逢えば、海潮(ウシオ)が遡って、港や里の船に被って、道路(ミチオオジ)は泥にまみれてしまう。だから、群臣よ。ともにその様子を視察して、横の堀を深く掘って、海に通して、逆流するのを防いで田宅(ナリドコロ=国民の住居)を完全にしろ」
と言いました。
群臣(マヘツノキミタチ=臣下たち)に詔(ミコトノリ)して言いました。
「いま、朕(ワレ=仁徳天皇自身のこと)がこの国を見ると、野も沢が広く遠くまで続いていて、田圃(タハタケ=田畑)は少なくて乏しい。川の水は横の堀にまで流れて、流れが速い。霖雨(ナガメ=長雨)に逢えば、海潮(ウシオ)が遡って、港や里の船に被って、道路(ミチオオジ)は泥にまみれてしまう。だから、群臣よ。ともにその様子を視察して、横の堀を深く掘って、海に通して、逆流するのを防いで田宅(ナリドコロ=国民の住居)を完全にしろ」
と言いました。
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解説
治水事業のお達し
これまで仁徳天皇は税の免除をすることで、国民を豊かにしました。今度は治水事業をすることで豊かに…というか災害を減らそうと考えています。この記事以外にも後も治水事業を仁徳天皇は行っています。
ここの文章の「横」というのは、堀のことで、増水すると堀を海水が登ってきたよう。海水が田畑に入ると、塩害で植物が育たなくなりますから、大問題です。それを深く掘って、予防したわけです。
これまで仁徳天皇は税の免除をすることで、国民を豊かにしました。今度は治水事業をすることで豊かに…というか災害を減らそうと考えています。この記事以外にも後も治水事業を仁徳天皇は行っています。
ここで個人的に大事なんじゃないか?と思うのは「治水」というのが「洪水避け」だってことです。これまでにも、池を作るという「日照り対策」「灌漑」用の「池」というのは見られましたが、ここでは「洪水よけ」の「治水」です。気候の変化があったか、田や農業の構造が変わったか、何かの変化があったんじゃないかと。
ここの文章の「横」というのは、堀のことで、増水すると堀を海水が登ってきたよう。海水が田畑に入ると、塩害で植物が育たなくなりますから、大問題です。それを深く掘って、予防したわけです。
仁徳天皇は「難波」の宮に住んでいます。難波というと平野が広がるわけで、生活・農業・貿易にも非常に便利だったはずです。ただし、「洪水」が怖い。それが「治水」に注力する理由かと。
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- Page11 仁徳天皇(十一)三年の間、全ての課役を免除する
- Page12 仁徳天皇(十二)天下を治める君主が立つのは百姓のためだ。だから君主とは百姓を根本とするのだ。
- Page13 仁徳天皇(十三)大兄去来穗別皇子のために壬生部を、皇后のために葛城部を
- Page14 仁徳天皇(十四)即位10年、使役して宮室の修理
- Page15 仁徳天皇(十五)難波の治水事業の詔
- Page16 仁徳天皇(十六)強頸断間と衫子断間
- Page17 仁徳天皇(十七)高麗国の鉄の的を盾人宿禰が射る
- Page18 仁徳天皇(十八)茨田屯倉と治水事業
- Page19 仁徳天皇(十九)桑田玖賀媛と播磨の速待
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