百衝はいつも軍の右の先鋒に

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仁徳天皇(三十三)百衝はいつも軍の右の先鋒に

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原文

五十三年、新羅不朝貢。夏五月、遣上毛野君祖竹葉瀬、令問其闕貢。是道路之間獲白鹿、乃還之獻于天皇。更改日而行、俄且重遣竹葉瀬之弟田道、則詔之日「若新羅距者、舉兵擊之。」仍授精兵。新羅起兵而距之、爰新羅人日々挑戰、田道固塞而不出。時新羅軍卒一人有放于營外、則掠俘之、因問消息、對曰「有强力者、曰百衝、輕捷猛幹。毎爲軍右前鋒、故伺之擊左則敗也。」時新羅空左備右、於是田道、連精騎擊其左。新羅軍潰之、因縱兵乘之殺數百人、卽虜四邑之人民以歸焉。

現代語訳

即位53年。新羅が朝貢しませんでした。

夏5月。上毛野君(カミツケノキミ)の祖先の竹葉瀬(タカハセ)を派遣して、その朝貢しなかったことを問わせました。この道路(ミチ)の間に白鹿(シロキカ)を獲りました。すぐに帰って天皇に献上しました。それで日を改めて行きました。しばらくしてまた重ねて竹葉瀬(タカハセ)の弟の田道(タジ)を派遣しました。天皇が詔(ミコトノリ)して言いました。
「もし新羅が拒絶したら、兵を挙げて撃て」
精鋭の兵を授けました。新羅は兵を起こして拒絶してきました。新羅人は日々、戦いを挑んできました。田道(タジ)は塞(ソコ=砦のこと)を固めて出ませんでした。その時、新羅の軍の兵卒の一人が営(イオリ=陣営)の外に出ました。それを捕らえました。消息(アルカタチ=内情)を問いました。答えて言いました。
「強力(チカラ)のある人がいます。百衝(モモツキ)といいます。軽く、早く、勇猛で、強い。いつも軍の右の先鋒です。左から撃てば敗れるでしょう」
そこで新羅は左を空けて、右に準備していました。そこで田道は精鋭の騎兵を連ねて、その左を撃ちました。新羅の軍は逃げて潰れました。兵を放って追い、数百人を殺しました。四つの邑の人民を捕らえて帰りました。
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解説

古事記にはない話
新羅は何回盾突くのやら。その度に、日本は使者を派遣したり、兵を派遣して、鎮圧します。新羅はかなり反抗的だったと。それに対してどうして百済は反抗しなかったのか? むしろ融和したのはなぜか?
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